幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

幸福の科学に見る「思考停止」させる方法

幾つかあると思いますが、思いついた順に挙げてみます。

1.「疑い」の禁止

幸福の科学の根本経典『仏説・正心法語』に収録されている『降魔経』は、非常に強い脅し文句が含まれています。
例えば、

仏法流布を妨ぐる 悪魔はこれを許すまじ
仏法僧への中傷は 極悪非道の所業なり
もはや人間として生まれるは
これが最後と悟るべし

この世のいかなる大罪も 三宝誹謗に如くはなし
和合僧破壊の罪は 阿鼻叫喚堕地獄への道 避け難し

こういう「呪いの言葉」で、信者の心を縛り付けています。信者は、日々、こういう「お経」を唱えることにより、無意識下に刷り込まれ、マインドコントロールされていきます。
しかし、全く根拠がないわけでもなく、仏教の教えの中にある「心の五毒」とか「六大煩悩」を元にしています。
大川隆法は、このように解説しています。

【疑(ぎ)】・・・疑いの心
さらに、「疑」、疑いの心があります。
この「疑」は「疑問の追求、探求をする」ことなどの科学的態度のことを言っている訳ではありません。
この「疑」というものは、仏神を疑う心、人間のなかにある仏の心、仏性を疑う心、真理を疑う心です。これを「疑」といいます。これもまた恐ろしい心で、ここにサタン、悪魔といわれるものが入り込んでくるのです。悪魔というのは昔話のなかの存在ではありません。現に現在でも活動していて、この「疑」のところに付け込んでくるのです。そして人を惑わせ、疑問を抱かせて疑いを膨らましていって人を混乱させていきます。悪魔に魅入られられるとすべてが正反対、逆に見えるようになります。光を闇と見るようになり、正しい人を間違った人、完全に狂った人のように見るようになります。恐ろしいことです。そのもとは、この「疑」の心です。特に真理の団体を撹乱する罪を「和合僧破壊の罪」といって、この罪は非常に重い罪になります。殺人や強盗よりも重い罪なのです。仏そのものを疑うことは許されないことなのです。それは、自分たちの存在そのものを否定することと同じことなのです。肉体は滅んでも魂は滅ぼすことができないのです。魂を殺すことと同じことが、この「疑」の心、仏を疑う心なのです。これが魂を否定することにつながることになるのです。

一部誤字訂正の上引用。「悪魔が入り込んでくる」とか「魂を殺すことと同じ」など言って、脅しています。「仏そのものを疑うことは許されないことなのです」と言っていますが、これは即ち、仏=大川隆法であるから、自分自身に対する免罪符を主張しているということです。どんな不品行をしても、大川隆法だけは許される論理になっています。
万が一、「仏陀を疑うのは罪」ということが正しいとしても、「大川隆法が再誕の仏陀であるかどうかを疑うこと」が罪になるとは思えません。だって、「自称仏陀」を信ずればよいのなら、麻原彰晃だっていいわけです。何故、大川隆法だけが本物の「仏陀」だと言えるのでしょうか。
単純に「疑」を禁止するなら、オウム真理教の信仰を否定することはできません。
そこで、本物と偽物をどう見分けるかということについて、かつて、大川隆法は、聖書の言葉を引用して、「その教えの真偽は『果実』(=信者)で見極めよ」ということを教えていました。私は、このブログを通して、その「果実」を吟味しています。ご覧になれば分かるように、どうも、おかしな「果実」がいっぱいあって、やっぱり幸福の科学も偽物ではないか、という疑いが非常に強いです。
私は仏教否定派なので、「疑」を六大煩悩の一つに入れて禁止したというのは、仏教の中のマインドコントロール要素なのだろうと思っています。「科学と宗教の融合」とか「未来型宗教」などと言うならば、こういう過去の仏教の中の迷信的要素を一番に廃していかねばならないと思います。
ちなみに、仏教でも、禅宗などでは「大疑の下に大悟あり」とか「大疑は大悟の基」とか言う言葉があります。決して、「疑」を単純に禁止しているわけではありません。大川隆法は、非常な勉強家であるから当然知っている筈なのに、こういう自分たちにとって都合の悪い言葉は巧妙に隠し、信者には知らせません。与える情報を操作することが、マインドコントロールの一手段でもあります。
本当に正しい真理であるならば、如何なる疑いも撥ねのけるものです。疑っても疑い切れないものを「真理」と言うのです。デカルトも、そうやって神の証明をやってみせました。

こちらは私が以前に書いたもの(をオーケーさんが転載して下さったもの)です。宜しければ併せてご覧下さい。
また、

こちらも参考になります。
兎に角、こうして、信者は教団の不正や教祖・職員の不品行について、疑うことができず、思考停止させられています。

2.外に目を向けさせ、内部批判をする暇を与えない

これも常套手段です。暇を与えず、また、外へ向けての活動で「自分たちはいいことをしている」と思わせることで、教団に対する疑念を抱かせないようにします。

2-1.常にノルマを課す

支部には常に月々の目標・ノルマが課せられています。伝道、献本、植福、行事へのお誘い、等々。その目的は、「ユートピア化実現のため」です。そうやって常に高い目標を与えるのは、余計なことを考えさせないための手段の一つです。
余談ですが、実際には目標を立てて日々邁進している筈なのに、活動信者は変わらないどころか、どんどん目減りしていっていますね。教団の運営の仕方が間違っているのに、教団側は絶対に反省しないのでそうなるのは必然です。

2-2.外に目を向けさせて誤魔化す

内部批判を躱すために、「今はそのような時ではない。日本の危機である」などと言って、結束を図っています。幸福実現党の活動はまさにそうで、まだ信者として残っている真っ当な信者さんや職員さんたちは、仮に教団に対して不満を持ち、教祖に対して幾らか疑念を持っていたとしても、それを隠して、「日本の危機なら仕方ない。目を瞑って頑張ろう」という気持ちで集まってやっているのだと思われます。
ここは非常に巧妙で、なかなか否定できない所です。
「自分たちは、いいことをしている。だから、この団体が悪いものである筈がない」という風な思考は、なかなか否定できません。
今の幸福実現党の人たちは、「維新の志士」を気取って、少数精鋭で頑張っているようです。でも、傍から見て、政治結社としては、何だか弱い気がします。主張も弱いし、行動にも一貫性がありません。明治維新の時は、本当に日本の危機でした。国の構造を根柢から変えなければ、本当に日本が滅ぶというような世界情勢であったので、時流というものが後押ししました。
幸福実現党も、「自称」では、日本を取り巻く環境がそのような状態であるとして、中国が攻めてくるぞー、と言っているのですが、どうも、イマイチ、現実味がありません。
それに、同様の主張は、他の保守勢力もやっていたりします。ですから、幸福実現党が小さな組織を立ち上げてやる意味は、現時点では極めて薄いように思われます。2009年の段階で、総裁がインタビューで言われたように、数十議席でも獲得していれば話は別でした。でも、それもできず、今年の第三極ブームでも、他の政党との政策の違いは、それほどハッキリとはしていません。
幸福実現党の党員たちは、「いいや、違いはある。自分たちの主張が一番正しい」と言うでしょうが、世間から見れば、(宗教政党ということを抜きにすれば)みんなの党とか維新の会とかとそんなに変わりません。その維新の会やみんなの党ですら、政策的に見れば、既存の自民党や民主党と大同小異であって、何かが決定的に違うものでもないです。それが低投票率にも結びついたのでしょう。
それに加えて、幸福の科学はカルト宗教による政党であり、泡沫政党であるということで、幸福実現党を支持する人は殆ど居ません。
「維新の志士」に自らを擬えるのもいいですが、現状を見る限り、「誇大妄想」と言わざるを得ないものです。よく自分たちを客観視した方がいいです。
真に「国を変えたい」というのなら、政党の看板を取り下げて、一圧力団体として、個々の問題に対して是々非々で自民党なり維新の会なりを支持していけば良いのではないでしょうか。その方が、自分たちの意見を政治に反映できる可能性が高いだろうし、信者への負担も小さくなります。
あと、本気で政治家になりたい人は、別の党から出た方がいいです。幸福実現党はもうダメです。
ちなみに、私は信者であった時からTPPには絶対に反対ですし、原発推進にも反対です。消費税増税反対は良いです。核武装もまあ必要かも知れません。核武装しないとしても、核兵器に対抗できる兵器や理論は必要です。それは、対中国というより、対米も含みます。幸福実現党の対米従属の姿勢には反対です。日本各地を空襲し、無辜の日本人を大量殺戮したのは米国だということを忘れてはいけないです。

2-3.外部に敵を作り、攻撃する

2-2と似ていますが、もっと激しい攻撃です。これは、過去にはフライデー事件がありましたし、高橋信次の問題もありました。最近では、離婚問題の時や、週刊誌に取り上げられた時などに行なわれています。
何か自分たちにとって都合の悪い事態が発生し、それを指摘された時、逆ギレのように相手の方に嚙みつき、自分たちに対する批判を有耶無耶にする、というパターンが見て取れます。
比較的常識を持ったまともな信者は、そういうパターンに嫌気が差して教団を離れていきます。そうして、狂信者だけが残っていきます。

3.教団を批判すると、「それはあなたの問題だ」と逆に反省を求められる

これも必ずあるパターンです。教団の否を責めると、「それはあなたの心の問題だ」という風に反省させられるのがこの教団のやり方です。
そりゃあ、確かに、人間というのは、誰しも何かしらの欠点はあるものです。その点を責められると、真摯な修行者であればある程、黙って自己反省を行ない、「悪いのは教団ではなく自分だったのかな」と思います。
でも、これは問題をすり替えられているだけです。
こうして、教祖や教団の悪は、信者や職員が幾ら指摘しても、決して訂正されることなく放置されます。だから、発展が止まり、衰退が続いています。立派な教えを説いていても、つくづく、実践ができない団体なのだなあと思います。

まとめ

他にも、膨大な経典類を与え、信者に与える情報をコントロールして囲い込むという手段などもあると思いますが、やはり、マインドコントロールの手法としては「疑」の問題が一番大きいでしょう。
なぜ幸福の科学で疑いを禁止することが正当化されるかと言えば、仏教の権威を利用しているからです。仏陀の権威を利用しているからです。
信者の皆さんは、全くの白紙の目で見て、疑うということが本当に悪であるかどうか、再検証してみる必要があると思います。
繰り返しになりますが、「疑」を禁止したことは、仏教の中のマインドコントロールの手段だったと思います。過去、教育が行き届いていない、無知蒙昧な人々を導く際には必要だったのかも知れませんが、現代のような教育が行き届いた高度情報化社会では、不要なもので、害にしかならないものです。仏教の中の毒素です。
だから、シルバーバーチや高橋信次は、疑うことを禁止しないどころか、寧ろ推奨しました。真の意味での「新宗教」は、そのように、迷信を廃したものでなければなりません。誰が何度再検証しても揺らがず、誰にでも追体験可能なものでなければ「真理」たり得ません。
それなのに、幸福の科学は「先進宗教」とか「未来型宗教」と言っている割に、迷信・盲信を勧めており、先祖返りをしてしまっています。
唯物論を否定するのは良いですが、迷信に回帰することは、時代の流れに逆行することです。
だから、幸福の科学は大きくならないのです。

追記:「疑」の反対の「信」について

ついでに、「我を信ぜよ」というのが大川隆法の口癖で、信者のみなさんは、だから信じているのだと思います。
でも、一般的には「俺を信じろ」とか「私を信じて下さい」というのは、詐欺師の常套句であるんですよね。
「人を信じたい」という人間の本能につけ込んで、騙すやり方です。