幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

何故、同性愛者はスピリチュアルに走るのか

タイトルは「同性愛者」と書いたが、同性愛者に限らず、「自分は他人とは違う」と自覚している人は、その原因をスピリチュアルなものに求める傾向があると思う。「自分は○○星人である」とか「過去世で○○があり、これこれこういう業(カルマ)を持っている」とか、そういった説明で自己の存在理由を説明し、自らを納得させようとしている。
これまで紹介してきた幸福の科学信者ブログの中でも、同性愛者や性同一性障害の方が何人かいた。他にも、自ら「統合失調症」ということをカミングアウトされている方もいたし、客観的に見て、明らかに統合失調症だろうと思われる方や、妄想性人格障害と思しき方など、色々といた。
そういう方々を差別する意図があるわけではないということを最初にお断りしておきたい。

出口王仁三郎の例

さて、最近、幸福の科学の思想的源流の一つである大本について勉強しているのだけど、出口王仁三郎という人は、自らを「変性女子」(魂が女で肉体が男という意味)だと言ったそうである。その理由を推測するに、どうも、自分自身の身長が150㎝そこそこであり、その辺にコンプレックスを持っていたのではないか、と思われるのである。某156cm氏を例に出すまでもなく、150cmというのは、幾ら昔の話とはいえ、低い方である。それで、その理由を説明するために、自らを「変性女子」など故事付けることで、コンプレックスを解消しようとしたのではないか、と思う。
私の想像に過ぎないし、大本の信徒の方からは叱られてしまうだろうけれど、私はそう思う。彼の場合、スピリチュアルの道へ進んだのはそれだけが原因ではないだろう。しかし、敢て「変性女子」などと言わなければならなかったのは、単に肉体的コンプレックスが原因だったのではないか、と思うのである。

同性愛者の場合

同性愛者の場合も、自分の感覚が他の人と違うことを、スピリチュアルな理由で説明して自分を納得させようとする。
幸福の科学では、その前提として、「原因・結果の法則」とかいうものが説かれる。「自己責任の原則」とも言ったりする。それは、「自分が今置かれている状況には、過去に必ず原因がある。生まれて以降のことで思い当たらないとすれば、過去世に原因がある」という風な説明がされる。
そういう理論に基づいて、自分の感覚が他の人に比べて異常であることを、生まれる以前のことに求めるのである。
曰く、「私は○○星人である」とか「地球に生まれたのは初めてである」とか「肉体は男性であるけど魂的には女性である」とか「肉体は女性であるけど魂的には男性である」とか「過去世において女性を虐待・迫害したことがあるから今世は女性として生まれたのである」とか、様々な理由をつける。
それで同性愛者は納得して、(一時的には)救われたように思うのであるが、私は、それでは問題が解決していないように思われるのである。
自分はそれでいいかも知れないし、同じ世界観を持っている人との間でならそれでいいかも知れないが、世間の多くの人は、そうは思っていない。結局、そういう人は、狭い世界でしか自信を持って生きていけないし、世間とつながる所では、卑屈になるか、逆に世間を見下して生きるしかなくなる。
この種の人は、自信があるように見えたりするが、実際には見せかけだけであって、「揺るぎない自信」というものはない。極めて薄弱な根拠の上に立てられた「砂上の楼閣」であるから、些細な波しぶきですぐに崩れてしまう。だから、自ら否定する者を異常に忌避し、周りに自分に賛同する者だけを集めようとする。幸福の科学の電波系信者によく見られるこういう偏狭な態度も、自分自身の「歪み」を説明するためにスピリチュアルに走った人の特徴である。

原因と結果の顛倒

結局のところ、原因と結果が逆転しているのである。

  • 「過去世で色々あったから、現在、同性愛者となっている」

というのがスピリチュアリストの論であるが、実際はそれとは反対で、

  • 「現在、同性愛者であるから、一時的な納得を得るために、スピリチュアリストになって過去世の理由を勝手に生み出した」

というのが正しい。
私が思うに、同性愛者に限らず、その人の感覚が他の人と異なっている原因は、単に脳機能障害かも知れないし、生まれ育った環境の方が大きいかも知れない。
「過去世の原因」などは、誰にも確認できないのだから、幾らでも捏造できる。自分勝手な妄想で幾らでも作り出すことができる。(占い師や霊能者はそうやって他人を支配する。オセロ中島の例を見よ。)
妄想だから、根拠があるようで、実は極めて儚い。そういう泡のように儚い根拠では、本当の自信には繋がらないし、幾らでも覆し得る。本当の「救い」には繋がらない。だから、スピリチュアリストは、自分を否定する者を異常に嫌い、自分を肯定する者だけを周りに集めようとする。

まずは受け入れる所から始まるのではないか

人は、様々な歪みを持って生きている。その原因を探るのは良いが、過去世にまで遡ることには無理がある。
神様は、記憶にないことまで反省せよ、と言われるだろうか。私はそうは思わない。「神は乗り越えられない問題は与えられない」と言う。過去世まで反省する必要があるのであれば、過去世を覚えていなければ、理不尽である。
「前世療法」というのがあって、あたかも万人が前世の記憶を持っていることが証明されたかのように言われたこともあったが、あれも実はインチキである。催眠中というのは、あり得ない記憶を勝手に作り出すのである。そのメカニズムは、

こちらで詳述されているので、是非読んでほしい。退行催眠というのは疑似科学であり、まやかしである。
だから、私は、反省するのであれば、生まれ落ちて以降のことに限定した方が確実であるし、幸せであると思う。両親の影響が最も大きい。肉体的遺伝もあれば、精神的遺伝もある。『毒になる親』を読むことが解決に繋がるかも知れないと思う。
あと、別に原因が分からなくたって、私は生きていけると思う。
他人と違うことがあっても、あなたは人間である。人間である以上、人間として平等である。その価値に上下はない。同性愛者も、統合失調症患者も、皆同じ人間である。わざわざそんな無理な理窟づけをしなくても、そのままの自分を受け入れて生きていけばいいのではないのか。誰しもコンプレックスは持っている。肉体的なコンプレックスや知的コンプレックス、精神的コンプレックスなど、様々ある。それで苦しむこともあるけれど、それが人生だ。人生とは苦しいものだ。苦しいこともあれば、楽しいこともある。
苦しいことだけを見つめて、そこから簡単に逃れる方法を探して、甘い言葉を囁かれ、どんどん地獄の沼の深みに嵌っていくのである。
神は背負い切れない苦しみは与えられないと言う。何故、軽々しく「スピリチュアル」に逃げようとするのか。自分の苦しみを解決するためにスピリチュアルに逃げる人は、本当の意味で、神を信じていないと思う。
それは麻薬のようなもので、一時的には問題が解決したかのように見えるが、根本的には問題は解決しない。根拠は単なる妄想であり、極めて薄弱であるので、永久に確認作業を繰り返さなければならなくなる。
その沼に嵌るのが自分一人なら良いが、他にも仲間を集めようとするのがいけない。知らず知らずに他の人にも毒を撒き散らし、不幸を拡大することになる。
マルクスの言った「宗教はアヘンである」というのはその通りであると思う。

宗教はアヘンである」という言葉の誤解

ついでなので書くが、
幸福の科学で取り上げられる「宗教はアヘンである」という意味は、誤解である。
マルクスは決して宗教を否定したのではない。前後の文を引用すれば、こうである。

宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片(アヘン)である。人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである

と。マルクスは、宗教は弊害が大きいけれど、弱者にとっては必要なものだって認めていたのである。幸福の科学では、意図的に部分だけ取り出し曲解してマルクスを悪者に仕立て上げている。
「スピリチュアルは、追い詰められた者の溜息である」と言い換えることもできるだろう。しかし、それはやはりアヘンであって、仮に幸福感が得られるとしても、それは一時的な幸福感に過ぎないものであり、幻に過ぎない。中毒性を帯び、何度も確認する必要があるが、次第にその効力は衰え、より強力な「幻惑」を求めるようになっていき、最後には人生を破滅させてしまうことになる。
マルクスは、現実を幸福にすることで、宗教に逃げなくてもよいような世界を理想としたのである。孔子の言った「衣食足りて礼節を知る」という言葉にも通じる考え方だと思う。
しかし、「追い詰められた者」から「阿片」を取り上げることはできるかと言うと、確かにその資格は私には無いかも知れない。代替物を与えることもできない。ただ、「それが一時的幸福しか与えてくれないものである」と指摘することはできる。その自覚を促すことはできる。幸福の科学的に言えば、「正見ができていない」ということを指摘したい。

まとめ

別に説教するつもりはないし、私の声が届く可能性は低いと思うけれど、私は、まず、自分を受け入れるところから始まると思う。神様を信じて、神様が自分を愛してくれていることを信じて、自分に背負い切れない荷物を背負わせることはないと信じて、まず、現状を受け入れることから始まると思う。
自分の弱さをや自分の欠点を受け入れられない人は、他人の弱さや他人の欠点も受け入れられないものである。幸福の科学は、教祖も職員も信者も、そのような人が多い。だから、些細な欠点を論って、信者同士でも争っている。だから、一生寄り添うと一度は誓った筈の伴侶の弱さや欠点も許せなくなるのである。
同性愛者だっていいじゃないか。統合失調症だっていいじゃないか。被害者意識が強くたっていいじゃないか。自己愛性人格障害だっていいじゃないか。まずはそれを認めて、受け入れる所から始まると思う。
妄想に基づく自分勝手な理由をつけて自己正当化の言い訳をし始めるから、おかしくなるのである。