幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

大本大道場修行体験記 その3 大本の歴史

講義で教えてもらったことと、自分で集めた情報に基づいて書かせて戴きます。(いきなり余談ですが、この「~させて戴く」という表現、幸福の科学でもよく耳にしましたが、大本でも使われていました。)

「型の宗教」

大本は「型の宗教」である、という説明がされていました。これは、大本の歴史を見る上で、どうしても前提として言わなければならないことのようです。

大本の特徴として、大本が日本、世界の「型」(ひな型)となっている、という教えがある。
「綾部の大本は、世界の大元(おおもと)と成る大望(たいもう)な処(とこ)であるから、此(こ)の大本に在りた事は皆世界にあるから、此の中に仕(し)ておる事が、世界の形(かた)に成るのであるから……」(大正5年旧11月21日、『大本神諭』)

つまり、「大本で起きたことが、その後、日本(や世界)でも起きる」という意味です。最初聞いたときは、「ほんまかいな」とも思いましたが、実際に歴史を見ていくと、そうなっているのです。
私の言葉で説明すれば、「フラクタルな世界観」ということになるかと思います。
普通、「フラクタル」と言うと空間に当て嵌めて「人体は小宇宙である」とか言ったりしますが、それを歴史に当て嵌めて考えると、大本の言う「型の宗教」理論になるのだろうと思います。
(余談ですが、ここで言う「フラクタル」は、アニメ『フラクタル』とは全く関係がありません。あれはどうしようもない駄作でした。脚本と世界設定がダメすぎました。第一話とOPとEDだけは良かったです。)
さて、そういうことを前提としつつ、

この年表が便利なので、参照にしつつ、説明を加えていきます。

開教

明治25年(1892)[壬辰]2月3日(旧1月5日) 艮の金神(国常立尊)が開祖に帰神し、綾部で大本開教

この時、開祖の出口直は、既に五十五歳でした。「大本開教」とありますが、団体が設立されるのはもっと後のことです。当時は宗教を立てることも自由ではありませんでした。なので、当初は金光教の組織の下で活動していたようです。

明治31年(1898)[戊戌]3月1日(旧2月9日) 聖師は高熊山(亀岡市穴太)で1週間顕幽両界の修業、救世の使命を自覚する

「聖師」というのは出口王仁三郎のことです(当時は結婚・改名前だったので、「上田喜三郎」という名前)。

明治32年(1899)[己亥]7月3日 聖師は開祖に招かれ、大本に入る

大本が面白いのは、霊能者が一人ではないということです。幸福の科学では大川隆法一人ですし、天理教などでも一人です。立正佼成会では、審神者が別にいたりしますが、神憑りは一人でした。
ところが、大本は、神憑りが二人いて、お互いに審神者の役割をしていました。
当初、二人は、そんなに仲が良かったわけではないようです。お互いに、相手の方には邪神が憑っていると思っていたようで、出口直が家出をして「岩戸隠れ」のようなことをしたり、逆に、出口王仁三郎の方が綾部を離れていた時期があったりしまして、それも非常に面白い所です。それでも最後には仲直りしています。これも何かの「型」を示したものなのでしょう。

教勢の拡大と第一次大本事件

大正5年(1916)[丙辰]4月22日 大本教を「皇道大本」と改称

この辺から、かなり活動が活潑になっていたようです。浅野和三郎が入信したのもこの年ですし、秋山眞之が来たのも大正六年でした。後に世界救世教を興す岡田茂吉や、生長の家を興す谷口雅春、「ひふみ神示」を後に書くことになる岡本天明なども、この頃の信者でした。
そして、運営の幹部となった浅野和三郎谷口雅春が中心となり、「大正維新」とか「大正十年立て替え説」を唱えて、知識人層を中心に、かなり教勢を拡大していたようです。(幸福の科学の90年代の『ノストラダムス』による伝道に比してよいかと思います。)
しかし、余りに教勢が拡大した為、政府当局からの干渉を受けることになってしまいます。

大正10年(1921)[辛酉]2月12日 第一次大本事件おこる。聖師を大阪・大正日日新聞社で検挙、京都監獄未決監に収容
大正10年(1921)[辛酉]5月10日 事件記事掲載を解禁、新聞・雑誌は一斉に大本を攻撃
大正10年(1921)[辛酉]6月17日 聖師は責付出所(検挙以来126日ぶり)

国家権力とマスコミによる「大本叩き」が行なわれたわけですね。
この時、出口直のお筆先である「大本神諭」が発禁処分になったことを受け、出口王仁三郎は「霊界物語」の口述を始めます。

大正11年(1922)[壬戌]10月 谷口雅春は大本を去り、昭和5年生長の家を興す
大正12年(1923)[癸亥]3月 宣伝・鎮魂・神憑の自粛を通達。浅野和三郎は大本を去り、心霊科学研究会設立(東京)

この辺で、第一次大本事件の原因となった「大正維新」派とは完全に袂を分かつことになります。
「宣伝・鎮魂・神憑の自粛」とありますが、それ以前までの大本ではそういうことをやっていたということですね。秋山眞之がやっていたのもそれで、浅野和三郎は、それらの人たちを指導しつつ、審神者の役割もしていたようです。

「鎮魂帰神」とか「霊道現象」とかについて

どうも、この「鎮魂帰神」が、数々の新宗教を生み出してきた諸悪の根源のようにも思われます。それをやらせているうちに、「我こそが神である」という人が次々と誕生して、数々の新しい宗教が生まれて行ったのではないでしょうか。
高橋信次も、「霊道現象」等と称して、弟子たちに色々やらせていました。高橋信次の死後、弟子たちが次々に別派を作りおかしくなっていったことも、大本で起きていた「型」を一回り小さくしたものだと言えそうです。高橋信次の後継者的存在としては、麻原彰晃や千乃正法などもそうですし、大川隆法もその一人でしょう。

明治時代から比べて退化している霊能現象

明治・大正の時代は、きちんと審神者付きでやっていたのに、昭和・平成の霊能者たちは、審神者なしになってしまっています。これは霊界研究の立場から言えば、ハッキリと退化であると言えるでしょう。

霊との付き合い方について

私は、霊との付き合い方に於て、道は二つあると思います。

「鬼神を敬して之を遠ざく」という道

一つは、第一次大本事件後の大本のように、「鎮魂帰神」を禁止してしまうやり方。

【神がかりは禁止】
神様は大正十年から神界の大本営で、一切の神がかりを禁止されているから、その後の神がかりは聞きはつったのをいうのであるから、そんなものは言ってやっても判らぬから、相手にせずホッておいたほうがよい。(昭和18年2月4日)

これは出口王仁三郎の言葉です。この「神がかりは禁止」という方針は、大本では徹底していて、現在まで続いているようです。
まあ、実は、こういう態度は、既に二千五百年前から示されていたりします。孔子が「鬼神を敬して之を遠ざく」と言ったのと同じことです。しかし、人類というのは進歩しないもので、何度も同じ過ちを犯してしまいます。

科学的探究の道

もう一つは、浅野和三郎のように、科学的に研究するやり方もあるのだとは思います。霊からの通信を絶対視するのではなく、他のスピリチュアリズムとの相違点を比較したりとか、肉体的な影響がどの程度あるのかとか、高級霊と低級霊を如何にして見分けるかとか、そうやって科学的に研究するのも一つの道だと思います。
大本から出た浅野和三郎が「心霊科学研究会」を設立して、心霊現象の科学的研究を始めたように、幸福の科学から出た種村修さんたちが「心検」を設立して、今また科学的な研究を始めようとしている、という風に比較して見るのも面白いかも知れません。
しかし、個人的には、すぐにおかしな方向へ転落しがちだし、手探りの部分が多すぎて、労多くして益少なしという感じがするので、やらない方がよいと思います。それは論語に示された道でもあるし、出口王仁三郎の晩年の言葉でもあります。それでもやるとすれば、「宗教化はしない」、「霊の言葉を絶対視しない」、「特定の霊媒の言葉だけを信用しない」等、厳しいルールを決めてやる必要があるかと思います。一歩間違えば狂人を輩出し、多くの人の人生を狂わせてしまうジャンルであるので、二度と同じ過ちは繰り返さないよう、細心の注意を払ってやる必要があると思います。

第二次大本事件

年表に戻ります。
弾圧されるものの、出口王仁三郎は不屈の精神でその後も活動は続けます。

昭和2年(1927)[丁卯]1月18日 明光社創立(月光会と月明会合併)、芸術活動を推進

「芸術は宗教の母」というスローガンの下、自らも焼き物を焼いたりして、芸術活動を推進しています。出口王仁三郎という人は、本当に多才な人だと思います。

昭和9年(1934)[甲戌]7月22日 昭和神聖会発会、賛同者1000万運動を展開

これは要は政治の世界への進出であって、幸福の科学の於ける「幸福実現党」のようなものと考えてよいと思います。実際の賛同者は、百数十万人とも八百万人とも言われ、相当な数に上ったようです。(そこは幸福実現党とは大違い!)
そこで、

昭和10年(1935)[乙亥]12月8日 第二次大本事件おこる。聖師(松江)・三代教主補(亀岡天恩郷)ら幹部を検挙、京都市内8カ所の警察署に留置

と、再び弾圧されることとなりました。今度の弾圧は、徹底的な弾圧であり、幹部は皆逮捕され、拷問を受け、61人中16人が獄中死したとか。建物も全て破壊され、ここで大本は殆ど壊滅したと言ってよいでしょう。

昭和20年(1945)[乙酉]9月8日 上告審判決、上告棄却(被告人のうち16名死亡)

十年後、戦後間もなく無罪となりました。無罪なのに何年にも亙って拘留され、無罪なのに拷問されて死亡とか、本当にどうかしています。それでも、出口王仁三郎は、官憲を恨むとかそういったことは無かったようで、淡々と芸術活動などに勤しんだりしていたようです。
さて、何気なく抜き出したこの三つの事柄ですが、「型の大本」を象徴する事例だったりします。つまり、これにプラス六年を加えると、そのまま日本で起きたこととちょうど重なってくるのです。

  • 昭和15年7月22日 第二次近衛内閣が成立
  • 昭和16年12月8日 真珠湾攻撃(大東亜戦争開始)
  • 昭和26年9月8日 サンフランシスコ講和条約調印

このように、日付がピッタリと符合してきます。これが「型の大本」と言われる所以です。大本で起きたことが、そっくりそのまま、六年後の日本を現しているという、象徴的な事例です。

戦後の動きと第三次大本事件

昭和21年(1946)[丙戌]2月7日 「愛善苑」として再発足。聖師は苑主となる

昭和23年(1948)[戊子]1月19日 聖師昇天(満76歳6カ月)。出口すみこは二代苑主就任

出口王仁三郎が作ったのは「愛善苑」でした。

昭和27年(1952)[壬辰]3月31日 二代教主昇天(69歳2カ月)。出口直日三代教主は道統継承
昭和27年(1952)[壬辰]4月1日 大本愛善苑を「大本」と改称。大本教法・教則施行。天声社(瑞光社を改称)・大本社会事業団を設立

二代教主が亡くなった途端、「大本」と改称しました。この辺から第三次大本事件が始まっています。
本部では「第三次大本事件」というのはタブーであり、存在しないことになっていますので、以下、別のサイトからの引用になります。

王仁三郎は「大本事件は松竹梅事件」だと言っていました。
 第一次は大阪の梅田で、第二次は島根の松江で王仁三郎は当局に拘引され、第三次は兵庫県の竹田の組織問題から表面化しました。
 竹は「内(うち)は空(から)」だから「内輪から」起きると王仁三郎は言っており、その通りに内部問題がこじれて分裂へと至りました。

ということで、現在は、大きく分けて三派に分かれています。

「道統」を巡っての争い
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もともと、四代教主とされていたのは、直美さんでした。しかし、昭和56年、直美さんの夫である榮二さんを教団から追放したことを切っ掛けに、三代教主の命令により、後継者を直美さんから聖子さんへと変更しました。(そもそも「教主」に後継者の変更権があるかどうかということも問題です。)
本部側の教主は、四代が聖子さんでした。でも、子供がいませんでした。聖子さんが亡くなり、五代が養子である紅さんとなっています。でも、現在の教主である紅さんにも娘はいないようです。本部の方は、後継者がいない状態です。
一方、本部から分かれた大本信徒連合会側の教主は、四代が直美さん、五代が直子さん、六代が春日さん、七代が直佳さんということで、直系で順調にお世継が誕生しています。
第三者から見れば、どちらが正しいかというのは明らかです。
天の意志というのは明確だと思います。如何に人為的に権謀術数を巡らしても、一方は世継が生まれず、もう一方は確実に世継が誕生しているという風に、明暗がハッキリと分かれています。

宗教間の統合のために──「型の宗教」としての大本の和合に期待する

ということで、幸福の科学と比較すると大本というのは、強引な集金や伝道・法外なお布施などを要求されることはなく、神への信仰や霊界の実在を説き、怪しげな降霊等は行なわず、「愛善運動」という日々の善行を奨励するという、一見理想的な宗教のようでありながら、内部では道統の継承を巡って、密かに激しい対立があるようでした。
私は、大本が「型の宗教」であるということは、大いに納得します。以前から、世界がフラクタル構造になっているという考えをずっと持っていましたし、日本の霊能系新宗教のルーツが大本であることは間違いないことです。
当初の目的としては、「大本には分裂の種があるのではないか」という疑いを持ち、どちらかというと悪意を持って研修に参加したのですが、終わってみると、逆に、「諸宗教の統合のための『型』も大本から生まれるのではないか」という風に思うようになりました。
もし、二つ(もしくは三つ)に分かれた大本が、再び一つになることができるのだとしたら、それは、大本から分かれていった世界救世教や真光系諸教団、生長の家GLA幸福の科学等の宗教が、大きく一つになることができるということになるのではないか、という考えに思い至りました。
世の中は、分裂から統合へと向かうべきです。
同じく神を信じ、同じく霊界の実在を説き、同じく万教同根を説き、同じく理想的世界の実現を目指し、同じく愛や善を説いている人たちが、どうして仲良く一緒にやっていくことができないのか、と思います。どうして、相互に「邪教だ」とか罵り合って対立し、世界を狭くしていかなければならないのか、と思います。
「万教帰一」とか「万宗同根」などと言うなら、それをまず自分たちに当て嵌めるべきです。大本が一つになり、大本系の新宗教が一つになり、日本の宗教が一つになることで、そこで初めて「世界の宗教を一つに」と言うことができるのではないでしょうか。
二十年来、幸福の科学の信者としてやってきた者として、少なくとも、(常識的な)幸福の科学信者が大本信者に宗旨替えすることは簡単にできると思いました。逆は難しいと思います。教祖の品行が余りに酷いので、大本信者から幸福の科学を見れば、邪神信仰にしか見えないでしょう。

今日のまとめ

個人的な感想ですが、大本というのは神道の改革運動なのかな、という感じがしています。宗教改革の神道版のような気がします。キリスト教ではルターやカルバン、仏教では日蓮親鸞や道元ですが、神道でそれらに当たる人が出口王仁三郎になるのかな、と思いました。(現時点での個人的な感想ですし、それほど詳しく勉強したわけでないので、異論はあるだろうと思いますが。)
聞くところによると、出口王仁三郎は、有栖川宮落胤説があるようです。それとは別に、(正統な)四代教主である直美さんの夫である出口榮二さんは、有栖川宮の血を引いた方です(こちらは確実な証拠つき)。とすると、(正統な)五代教主直子さん以降には、皇族の血は確実に入っていることになります。
私は、今の皇族になかなか男子が生まれなかったことも、何らかの天の意志表示だと思っています。
尤も、「日本の神々がどう思っておられるのか」などということについては、私ごときが簡単に結論が出せるものでもありません。
しかし、大本は大きな可能性を秘めた宗教だということは感じました。