幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

【読書感想文】鎌田東二著『霊性の時代』ほか

昨年末に出口孝樹さんから鎌田東二という宗教学者の方の名前を初めて聞き、今年に入ってからKinoppyで鎌田東二さんの『神道とは何か』という本を買って読んでみたところ、なかなか良かったので、他にも読んでみたいと思い、買おうかと思ったがどれも比較的高かったのでとりあえず図書館で借りようということで、約二週間前に鎌田東二さんの本を四冊借りたのだが、まともに読めたのは一冊だけだった。明日が返却日なので、延長できるなら延長しようと思う。

鎌田東二著『神道とは何か』(PHP研究所、2000年、isbn:4569610854

現時点で唯一電子書籍として購入できる鎌田東二さんの本のようです。約十三年前のものなのですが、専門書ではなく一般向けに書かれたもののようなので、比較的読みやすかったです。少し引用しながら感想を書いていきます。

今、宗教に対して厳しい批判の目が注がれている。宗教(教団)がなしてきた過去のさまざまなあやまちと無反応を考えれば、それは当然の結果といえる。
だが、最近の政治不信や学校不信も大変問題であるが、これほどの宗教不信は社会全体、文化全体のアイデンティティの基盤の喪失と無力感や虚無感を生み出し、健全な社会的信頼と創造性を築いていく上で、きわめて有害ではないだろうか。「信教の自由」や「政教分離」の問題を含め、もう一度根本的に宗教をとらえ直す必要があるのではないか。そして、公教育においても、できる限りニュートラルな宗教学的・宗教史的教養と知識が必要であると私は思う。宗教が文化的・教養的な共有財産にならなければならないのである。
(「はじめに」より)

云々と。鎌田東二さんは、宗教学者であると同時に神主さんの資格も持っておられ、実践的な宗教者でもあられます。阿波徳島の出身で、幼い頃から霊的体験や宗教的体験を重ねてこられた方のようでもあります。
この本では、古代からの日本の宗教の歴史を説明しているような感じです。明治期の大本教についても言及されています。その中で、「オウム真理教事件につながる棚上げされた問題」と題して、以下のように述べられています。

ここで指摘しておきたいのは、第一次大本事件後裁判が起こり、出口王仁三郎が主張するような神がかりや霊的体験が実際本当にあるものなのかどうかが、裁判で真面目に議論された点である。つまり鎮魂帰神などのシャーマニズム的な現象が、精神病理的な妄想的な心的現象なのか、それとも実在の現象なのか、大真面目に議論され始めたことである。出口王仁三郎を鑑定する精神科医や様々な宗教学者、批評家などもこうした問題に批評や論評を加えることとなる。
しかし、大正天皇崩御と共に恩赦が行われ、出口王仁三郎浅野和三郎も放免される。そのためにこの問題は裁判として続行されることはなく、うやむやな形で棚上げされた。
私はこの問題の棚上げが、戦後、神々のラッシュアワーと言われる新宗教運動の流行のあと、新進宗教の隆盛を経て、やがてオウム真理教事件へと展開する原因の一つになったと見ている。つまりここで神主と審神者という、神道における根本問題が議論されようとしたのだが、これに蓋をしたまま、その後この問題について誰も真面目に考えようとしなくなったことの負債である。
つまり神がかり、つまりシャーマニズム的現象は実際にあるのか。あるとすれば、一体その神がかりとはどのような神が何のために起こすのか。そこで語られる神託や異言、筆先といったものは本当のものであるのか。それを確かめ、確定しようとする、審神者の文化がこのとき真面目に吟味されようとした。しかし、神主や審神者という形で神道に伝承されてきたシャーマニズム的な宗教体験や宗教意識が、国家転覆の危険をなすものとして、排除されたり無視される形で棚上げされ続けたのである。
そうした棚上げ行為の帰結が、最終解脱者を名乗って「ポア」という大量無差別殺人を行ったオウム真理教麻原彰晃(本名、松本智津夫)の思想と実践にまで行き着く。すなわち麻原彰晃の思想と行為に、審神者的意識をもって対面しようとする文化がなかったということである。こうした形で大本事件に対する総括ができていないことのツケが回ってきたのである。

この部分は、オウムよりも幸福の科学問題によく当て嵌まると思う。戦後の「神々のラッシュアワー」の一つの原因が、大本教の「鎮魂帰神法」にあったことは、私の意見と同じであった。GLA高橋信次によって一度大成され、そこからオウム真理教が生まれ、また幸福の科学も生まれた。
大本での「神がかり」と戦後の「神がかり」の大きな違いは、大本では「審神者」がまだ機能していたということだと思う。それに引き換え、戦後の「神がかり」は、自分で宣言すれば、それに盲目的な信者がついて、一つの教団を形成してしまうようになった。その過程で審神を行う人は居なくなってしまった。
鎌田氏はここで、「審神者的意識をもって対面しようとする文化」を持つべし、と主張しているのであろう。霊的なことを否定し、タブーにしてはいけない。人はやはり、目に見えないものを信じたいという気持ちがあり、だから宗教に人が集まるのである。そこで、その宗教の真偽を見極める目が必要である。宗教を触ってはいけないもの、批判してはいけないもの、という風に考えるから、オウムや幸福の科学のような宗教が、見えない所で大きくなってしまい、社会問題となるのである。
私は、宗教界内部で相互批判することが許されるような空気が必要なのでは、と思う。
最後に、あとがきから抜粋。

神道が神主(神がかりする者)だとすれば、仏教は審神者(神がかりを正しく査定し位置づける者)であり、その両方のバランスと統合が必要だというのが私の立場である。仏教は世界宗教史の審神者たり得る宗教(哲学)である。神道が世界宗教(史)に対して果たし得る役割も大きいと思うが、世界宗教(史)の審神者としての仏教の役割はもっと大きく、可能性を秘めていると思う。
仏教には長い教相判釈の歴史と経験と知恵がある。この教相判釈を仏教内部のみならず、世界の諸宗教に対して行い、正見する。教相判釈だけでなく、徹底した教祖判釈をも試み、まやかしのカルト宗教は撃破する。それくらいの気概と正見力を発揮してほしいのだ。だが、現代日本の既成仏教はきわめて保守的、自己防衛的であり、仏教本来の役割を果たしていない。
神道は神道の務めを果たし、仏教は仏教の務めを果たさねばならない。それぞれの道を行き、完成させねばならない責務と委託(祈願)があるのだ。神道の良さは他の神々をも認め、共存していけるところにある。自分だけを絶対にしない。自己を絶対的中心とはしない。根本的に開かれていて、寛容である。他者、他宗(他宗教)に対する畏敬の念をもっている。
二十一世紀の宗教の過大は、それぞれの宗教(教団)がどこまで自宗にも他宗にも寛容になれるかであると思う。宗教的寛容を深め、実践できない宗教は人類文化に有害である。寛容を失なったところでは、宗教そのものが一個の精神的暴力(機構)として存在する。宗教が自らのうちにはらむ構造的暴力を宗教自らの知恵と力によって自浄できなければ、宗教は自爆し、解体するだけでなく、他者を巻き込み、精神的暴力と隷従をもたらす。
二十世紀末の日本に起こったオウム真理教事件や最近の法の華三法行問題は、宗教が自己浄化力をもたず、自己増殖し、自己妄想の中で他者を巻き込み、害をなし、自己破産していく過程をあますところなく示している。
こうした宗教の陥りやすい自己中毒的な構造的暴力を中和し、解毒する宗教的機能が発揮されねばならない。それには、神道や仏教がその本来的性格と本質に立ち返る必要があると思う。

「自己妄想の中で他者を巻き込み、害をなし、自己破産していく過程」というのは、今の幸福の科学にもよく当て嵌まる。幸福の科学は、自称「自由と寛容の宗教」ではあるけれど、やはり言行不一致であって、全てが教祖である(エル・カンターレこと)大川隆法中心の、自己中心的な教団である。他宗は皆自分より下にあるものであり、敵対するものは皆悪魔である。

加藤清・鎌田東二共著『霊性の時代』(2001年、春秋社、isbn:4393312643

加藤清さんは、1921年生まれの精神科医のお医者さんだそうです。
鎌田東二さんによる「まえがき」から引用します。

京大付属病院の若い精神科医だったころ、壁面に頭を打ちつけて自傷行為を止めない精神分裂病者の患者に対して、だれもそれをとめることができず、なす術がなくなったとき、何を思ったか、突然、加藤医師は病室の隅にあったごみ箱の中に入って土下座した。すると、それまでだれが止めに入っても壁に頭をぶつけるのをやめなかった患者がふと動きを止めて、加藤医師を振り返った。そしてこの瞬間から治療行為が進み始めた。
この、患者に向かって「土下座」するしかたには、なにか、祈りのようなものがある。加藤医師はなぜ「ごみ箱」に入って「土下座」したのか。ここには、どうしようもない悲しみ、痛み、無力感、あきらめに引き裂かれながらも、それを超えていく超越的なものへの一身を賭けた企投がある。捨身がある。自己放擲がある。この自己の投げ出し方に、わたしは加藤清というパーソナリティの天与の個性、天才的な共苦への感応道交のセンシビリティを感じる。そんな加藤清をわたしは深く尊敬し、愛する。

こういう強者の方のようです。
お二人の宗教的なエピソードが続くので、宗教に関心のある方なら楽しく読めると思います。

親鸞について

第二章「沖縄とシャーマニズム」から引用。

ぼくはシモーヌ・ヴェイユ親鸞も非常に好きで、その好きな理由は、苦悩こそが生命を進化させるような、一つの反発力というのか、反転するちからが人間を創造的なものにしていくということをはっきりと実感させてくれるからです。それは先生のいう創造の病いでもありますが、病いが創造性を持っているということを、親鸞シモーヌ・ヴェイユも一つの哲学にした。そして実践しきった。それを生きた。そういうお手本のような人。高みに上っていくためには下りていかなければならない。高みに向かって、人間は落ちていくんだ。そう言って生きた。高みに向かって上っていくというのが普通の言い方ですね。高みに向かって落ちていくというこの精神は人間の洞察力として深いと思うんです。

私はシモーヌ・ヴェイユという人の名前は初めて知りましたので、親鸞のことと思って理解しますが、この部分はよく分かります。親鸞を高く評価する人、西田幾多郎先生や吉川英治などもそうでしたが、そういう人たちは、宗教というものをよく理解している人だと思っています。逆に親鸞を貶す大川隆法という人は、宗教が全く分かっていない人なのでしょう。教祖の悪しき影響を受ける信者たちは可哀想です。

密教について

第三章「イニシエーションと密教」より。

ぼくは自分の祖先の一人が真言宗のお寺を作ったり、高校を出てしばらくお寺にいたこともある。卒業論文も空海、弘法大師とヤコブ・ベーメの神秘体験を比較したので、密教を思想としても、実践としても、評価してきたし、友達にも真言宗の坊さんも多い。
ところが、その魔の体験以降、一度、ぼくはシャーマニズム密教に対して、とてもネガティブになったんです。というのは、そこにはブラックマジックもあれば、ホワイトマジックもあるからです。そのブラックな側面をきちんと見て、昇華できるようなシャーマニズム密教でないとダメだ。そのときにお釈迦さまはすばらしいとぼくは思ったんです。つまり、そういうブラックものを白紙の状態にして、無化して、呪術や迷信を取り除く。また、バラモン教やヒンドウ教を全部一回、カッコに入れる。そして、現象そのものをありのままに見よというお釈迦さまの仏教の態度はとても重要だと、ぼくは思ったんです。
つまり霊能力を一回ゼロにする零能力が必要だ。超能力にせよ、霊能力にせよ、それをいっぺん捨ててしまうようなちから、無化するようなちからと知恵が働かないと、自浄能力が育たない。超能力や霊能力にとらわれてしまうし、それを駆使して、自分の欲望を肥大化させて、力ずくで人を屈服させるとか操作する、マインドコントロールすることになります。
密教の歴史を見れば、立川流にせよ、チベット仏教にせよ、いろいろな問題を起こしてきたと言えますし、殺人や呪殺もありました。それをぼくは肯定できない。

ということで、密教に対しては初め肯定的であったものの、のちに否定的になったそうです。更に、

オウム真理教に欠けていたことは、大乗仏教的な実践だったと思うんです。つまり、菩薩道の実践。

と述べ、

最初は密教が重要だと思っていた。その次は釈迦仏教が重要だと思うようになった。でも、一番セジが高いのは大乗仏教だというのが、ぼくのそのときの結論で、今もその結論は変わっていないんです。仏教として一番重要なのは、ぼくにとっては大乗仏教的な精神と実践です。それを抜きにして、密教は成立しない。もし大乗仏教を抜きにして密教に至ったならば、重要なプロセスカットをしていくわけだから、密教そのものが成り立たなくなる。

云々と述べられています。幸福の科学でも「大乗」とは言っていますが、その中身はと言えば「伝道」と、そのための「植福」でしかなく、つまり、「幸福の科学の信者を増やすこと」と「教団にお金を納めること」でしかありません。
「大乗」とはいうものの、「望む物を与える」とか「困っている人を助ける」とかいうことではなく、「望まないもの(大川隆法の本)を与え、困っていない人を困らせる」、そして「教団に分不相応なお金を納めることで、自らが不幸になり、家族も不幸に巻き込む」というのが幸福の科学の「大乗運動」なるものの実態です。

最澄と空海について

同じく第三章から。

でも、その密教を批判するという精神もぼくはとても大事だと思うんです。それがあまりにも欠けていたのではないか。そういう意味では、ぼくは空海と最澄を比べた場合、最澄のほうが密教を含めて、仏教の教相判釈を厳格にする精神が生きていた。大乗仏教の伝統のなかに、密教を位置付けることをしたと思う。

ところが、空海のほうは、結局、空海自身が教相判釈をして、『弁顕密二教論』とか『秘蔵法鑰』を書いて、密教のほうが優れていると主張した。『十住心論』などでも全部、第十心の秘密荘厳心が一番上だ。華厳経よりも密教が上だ。自分たちが一番上だという大系を完ぺきに、ヘーゲル精神現象学のように作ってしまったから、それ以外の道はなくなった。それを批判するとか、それを一回抜けるとかいう道がなくなって、全部、そこに収まってしまう。これは仏教の教学としては批判精神がなくなって、停滞してしまうと思うんです。そして、それが国家と結びついていたために、そこでこの結び付き全体をもう一つ別の観点から見る、もう一つ上から、つまり本来の大日如来の宇宙的悟りから見るという視点が、日本の真言密教教団においては失われてきたのではないか。そういう感じがぼくはします。

「自分たちが一番上だという大系を完ぺきに、ヘーゲル精神現象学のように作ってしまったから、それ以外の道はなくなった」という辺り、大川隆法にも当て嵌まることですね。
また、幸福の科学では、最澄を地獄に堕ちているとする一方、空海を「如来」の一人として非常に高く評価しています。鎌田さんの評価とは正反対になります。

「霊性の時代」=「超宗教の時代」

この本のタイトルにもなっている「霊性の時代」とはどういうことか。
鎌田さんのまえがきから引用です。

本書は、最初、二十一世紀の幕開けにドカーンと大きな花火を打ち上げるようなタイトルで行こうかと話し合っていた。一番先に浮かんできたのが、『超宗教満開』というタイトルだった。加藤先生もわたしも、二十一世紀は宗教教団の枠を離れた、あるいはそれを超えた深い「宗教性」発現の時代になると考えている。その「精神のかたち」を「超宗教」という言葉で言い表そうと考えた。
(中略)
三番目の候補が、『霊性の時代──これからの精神のかたち』である。最終的にこのタイトルになったが、読者に対して、「超宗教」より「霊性」の方がよりわかりやすく、伝わりやすいのではないかと考えたのだが、いかがだろうか。

ということで、この「二十一世紀は宗教教団の枠を離れた、あるいはそれを超えた深い『宗教性』発現の時代になる」という辺りも、私が非常に共感した所でした。
幸福の科学も「二十一世紀は霊性の時代」と言い*1、既存の宗教の弊害を見て、何とかしようと立ち上げられたものなのだと思うのですが、発足以来四半世紀以上経過し、(旧来型宗教と比較しても)他の宗教以上に「組織の弊害」というものが現れているように思われてなりません。「先進宗教」と言うことも一時期言っていましたが、私が見る限りでは、抑圧型・迷信型の宗教であり、タブーや拘束の多い中世返りの宗教です。
とにかく、「超宗教」ということは、一つのキーワードだと思います。関谷さんもそれを目指しておられたし、綾部のゐやびの祭りや大本信徒連合会の出口春日さんたちもそういうことを目指しておられるようだし、鎌田東二さんもそのようです。
幸福の科学は、他人や他宗を裁き・見下す傾向が強く、組織としても硬直してしまって柔軟性が全く無いので、「超宗教」の流れに加わることはできません。本気で人類全体の幸福や、宗教全体の未来について考えている人は、幸福の科学には居られないようになる筈です。

鎌田東二著『神と仏の出逢う国』(2009年、角川学芸出版isbn:9784047034495

少し読みましたが、専門用語が多めで私には難しく、『神道とは何か』と被る部分もあったので、今回はパスしました。

まとめ

『霊性の時代』は、二人分のエピソードが読めるし、色々と面白かったです。幸福の科学信者の方が読んでも楽しめると思いますし、他の宗教の方や、一般の方が読んでも充分に面白いと思います。
鎌田東二さんについては、他にも何十冊と本を書かれているようなので、継続して勉強してみようと思います。

*1:まあ、どうせどこからかのパクリなんでしょうが