幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

幸福の科学という宗教の驚くべき救済力の無さ

初期の頃に紹介したこともあるこちらのドラバネ♂さん。

ふろんてぃあさんのところでコメントを書かれていたので、そこから飛んで久しぶりに読んでみました。

ギャンブルへ行かない方法が、財布にお金入れないというのが唯一の手段

これって末期ですよね。

仕事もお昼で帰れたら用事済まして

出撃とか

完全にダメ人間ですよね。

ギャンブル依存性です。

GAの集まりが、夜しかないので、

なかなか行けない

ほんとにダメ人間やな

批判覚悟で書きました

とか、

しかし

なんかつくづく自分てものが嫌なってきた

自分を好きやないやつが、

人から好かれる訳ない

自分は最低の人間や

間違いなく底辺の人間や

朝から超ブルーです。

悲しい寂しい

出会い欲しい

結婚相談所もお金高いし

世の中とりあえずなんかするにはお金やねん

愛だの信用だの、

優しさだの、幸せだの

言うても

お金が一番大事

社会で大事にされるのは

お金持ち

貧乏で有名やった人なんか

大昔の人やん。

立派なこと話してても

身なりが、貧乏っぽく見えたら

誰も近寄らないやん

あーもーあかんな

今日は一日うつや

とか。
他にもこんな暗い暗い日記ばかりで、読んでいるこちらの気分も暗くなります。
こういう人を、幸福の科学はどう扱うかと言うと、「法を学んでも、実践するのは各個人。信者一人一人が幸福になるかどうかは、自己責任ですから」と、「自己責任」論で切って捨てます。「指月のたとえ」を持ち出したりすることもあります。「上根・中根・下根」ということを言ったりもします。「こういうのは『奪う愛』の人である。こういう人に接すると、無限に時間が奪われてしまう。貴重な時間は、もっと他の有意義なことに使うのがよい」というような説明がされることもあります。「霊障者だから、関わらないほうがよい」と言ったりすることもあります。
でも、幸福の科学って、「全人類救済」って言ってるんでしょう。或いは、万人に適用できる「普遍の法」とも言っているのでしょう。だとしたら、こういう信者さんを救う力がなければ、世界宗教なんて、夢のまた夢です。
「実践するのは各個人である」と言って切り捨てるのではなく、「実践できるようになるまで、責任を持って指導する」というのが本当の宗教の姿だと私は思います。
大川隆法も、かつて、『聖書』の百匹の羊を飼っている羊飼いの話を持ち出して愛を説いたことがありました。羊飼いは、百匹のうち一匹でも迷子になりはぐれた羊がいたならば、九十九匹を放置してでも一匹を探しに行くと。
今の教団の姿は、それとは余りに掛け離れ過ぎています。
幸福の科学教団内には、ニャーさんに救いの手を差し伸べる人もいなければ、ドラバネ♂さんを正しく導こうとする人もいません。「自己責任」という、何でも言い訳できてしまう魔法の言葉によって、幸福の科学の「愛」は死んでしまっています。つくづく、愛のない教団だと思います。
これまた聖書の言葉をパクって、大川隆法も「愛は忍耐である」ということを言ったりもしています。でも、これまた実践が皆無です。忍耐強く、辛抱強く人を導くということがありません。

原因の考察

恐らく、会の運営体制にも問題があるのだと思います。精舎も支部も、常に目標に追われ、ガツガツしていて余裕がない。仮に、じっくり時間をかけて、地道に一人一人の救済をしたい、善導したいという職員がいたとしても、その人は「無能」と評されて、放逐されることになってしまう。それよりも、何か派手なことをやったり言ったりして、口先三寸で信者を感動させ、「植福」を集めることのできる職員が重用されることになる。
こうして、救済力のない団体が出来上がりました。
根本原因は、大川隆法の性格にあります。身の程知らずで傲慢で、人を人とも思わない。味方でさえ、将棋の駒のようにしか思っていない。妻も愛人も幹部も信者も「使い捨て」されてしまう。
幸福の科学の信者であっても、愛ということを真剣に考え、実践しようとしている人は、今までも教団のやり方に疑問を持ち、悩んでこられたことでしょう。
結局、幸福の科学が「愛」と言っているものは、愛じゃないんです。
会内では「伝道は最大の愛の行為だ」と言われていますが、それは幸福の科学が本当に正しいことが前提の話です。大川隆法が本当に救世主的存在であることが前提の話です。その前提は、既に崩れています。「幸福の科学のせいで不幸になった」と言って退会してアンチになる元信者が続出している事実がそれを証明しています。
人に嫌がられ、煙たがられるだけの強引な献本行為などは、断じて「愛」などではありません。相手が望むことをしてあげることが愛の基本です。「汝の欲する所を人に施せ」、「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」です。
家庭を犠牲にする宗教活動なども、愛とは言えません。「修身・斉家・治国・平天下」という順序が大切です。
愛に飢え、愛を求めている人に対し、「奪う愛だ」とか「悪霊が憑いている」とか言って切って捨てるようなことも、愛ではありません。「上着を取られたら下着を差し出せ」、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というのが、本当の愛の教えです。生きた温かい愛の教えです。
幸福の科学の「愛」の教えは、死んだ冷たい「愛」の教えです。口だけの「愛」です。机上の空論の「愛」の教えです。
自分たちに対して批判をしてくる者たちに、「悪魔」というレッテルを貼り、悪口をいうことも愛ではありません。「汝の敵を愛せ」とか「恨みに報いるに徳を以てす」というのが本物の愛の教えです。
口先だけで「愛」を説き、実践が全く伴わない。実践をしない言い訳だけは豊富にある。それが大川隆法とその弟子たちの姿です。