幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

信仰にも段階があるという話

最近、ブログの更新が疎かになっていましたが、何をしていたかというと、他の信者ブログのコメント欄へ出向いて、信者の方との対話を試みていました。

この辺です。
この信者さんとのやり取りの様子は、他のアンチブログでも取り上げて戴きました。

などです。有難うございます。
信者の皆さんからは、「悪魔」とか「ゴキブリ」とか「馬鹿」とかいう罵詈雑言を頂きました。「7代に渡って悔恨の牢獄へと送ってください」というような、呪いの言葉まで戴きました。
このような悪態をつくのが現在の幸福の科学の信者です。幸福実現党から出た立候補者ですら、一般市民に対して「尊大」だの「悪魔の手に落ちた」だの、非常識な発言を連発しています。
到底、まともな信仰をお持ちとは思われません。
他にも、信者の発言の自己矛盾について、楽山日記さんなどが指摘して下さっています。

「信仰」の問題

私が問題にしたいのは、「信仰」のことです。
信者の方と交流を始めた当初こそ、紋切り型で「アンチは無神論者だ」とか「唯物論者だ」とか言われていましたが、対話を重ねていく中で、そういう誤解は解けてきたようです。
私は、「幸福の科学の信仰は偽物の信仰である。信者は須く本物の信仰に立ち返るべきである」ということを、繰り返し主張しています。

「その木の善し悪しは、果実を見れば分かる」ということ

幸福の科学の信仰が誤りである証拠は、上記ブログのコメント欄のやり取りにも見られますが、信者の言動や行動に現れています。
このブログでも何度か言及しましたが、かつて、大川隆法は、宗教の正邪を見極める方法として、『聖書』の「その木の善し悪しは、果実を見れば分かる」という言葉を引用して、宗教の正邪は信者の行動を見れば分かる、ということを述べました。
まず、その聖書の言葉から引用します。

にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

http://bible.e-lesson1.com/1matthew7.htm(マタイによる福音書 第7章)より引用。
「預言者」とは神の言葉を預かる者の意味であり、「予言者」とは別の言葉です。「にせ預言者」とは、神の言葉を騙る偽物の預言者(=詐欺師)のことです。「羊の衣を着て」というのは、一見、親しみ易く、信頼できるように見えるということでしょう。
「実によって彼らを見わける」以下が、見分け方の説明です。
幸福の科学は立宗以来二十五年以上が経ち、その実が「良い実」か「悪い実」かは、ハッキリと結論が出ています。それなのに、信者は、「創業時にはいろいろ問題も起こる」(加納氏の言葉)などと言い訳をします(ピッポ氏などは「一億年待て」と言い訳しました*1幸福の科学の信者は、一億年間信仰を続けないと幸福にはなれないようです)。一体、いつになれば、幸福の科学は「良い実」を結ぶのでしょうか。
現在の幸福の科学の信者は、木(=教え)だけを見て、「この木は良い木である」と思い、信仰を始めたに過ぎません。「にせ預言者」は「羊の衣を着て」いたから、信者たちはまんまと騙されてしまいました。しかし、実は、その内側は、「強欲なおおかみ」ならぬ、「強欲なおおかわ」でした。
現在の幸福の科学の「実」を見るに、「悪い実」ばかりが目立ちます。「家庭ユートピア」などと言っていながら、家庭はもうボロボロになっている。「成功」とか「繁栄」とかが説かれているけれど、無理なお布施により、貧困に喘いでいる信者も少なくない。以前は「この世とあの世を貫く幸福」などと言っていたけど、最近は、この世的な幸福は捨てよ、というようなことを説いている。
貧困の中でも、せめて心だけでも豊かであればいいのに、このブログでも散々紹介してきた通り、心が荒んだ信者ばかりが目立つ。表向きは豊かそうに取り繕っていても、一皮捲れば酷い有り様である。信者を続けることで、信者の人格が良くなるわけでもなく、寧ろ悪くなっていく例も報告されている。
この根本原因は、幸福の科学という「木」が間違っているからに他なりません。

信仰にも段階があるということ

ピッポさんの所のコメント欄で、「ともとも」という方が、旧約聖書の「ヨブ記」の話を持ち出して、「悪い実」を日々生み出している幸福の科学を擁護しようとしていました。
私は思うのですが、信仰にも段階があるのです。幸福の科学では、それを教えておらず、原始的な信仰の姿も、発達した信仰の姿も、ごっちゃにしています。信仰にも、幾つかの段階があります。
今までも何度か言及しましたが、

こちらを参考にして話を進めたいと思います。

人間の進化は、母親中心的な社会構造から父親中心的なそれへと移行し、宗教もまた同じ道をたどったので、愛の成熟過程は、おもに父権的な宗教の発達のなかに跡づけることができる。この発展の最初には、横暴で嫉妬深い神がいた。この神は自分の作った人間を自分の所有物とみなし、人間にたいしては自分の好き勝手なことをする。(中略) だが同時に新しい段階が始まる。神はノアと契約を結び、二度と人類を滅亡させないと約束する。この契約によって神もまた縛られる。神は自分の約束に束縛されるだけでなく、正義という自分の主義によっても束縛される。(中略)
こうして神は、横暴な部族長から、愛する父親へ、そして自分の決めた規律に自分も縛られる父親へと変わったが、発達はれにとどまらなかった。すなわち、神は父親からさらに、正義・真理・愛という原理の象徴となった。神こそが真理であり、正義である。この発達段階で、神は人間であること、男であること、父親であることをやめた。神は、さまざまな現象の背後にある統一原理の象徴となり、人間の内にある種子から育つであろう花を象徴するものとなった。したがって神は名前をもつことができない。なぜなら、名前というのはつねに物とか人間とか、何か限定されたものを示すからである。神は人間でも物でもないのだから、名前をもてるはずがあろうか。

これは、エーリッヒ・フロム氏による、信仰の発達段階の説明である。
人間の知的レベルの向上に従って、「神」は人格神から非人格神へと認識されるようになった。
フロム氏は続けてこのように述べている。

いうまでもなく、人間の姿をした神から、純粋な一神論原理としての神への進化は、神への愛の性質を一変させた。アブラハムの神は、父親として愛されることもあれば、恐れられることもあり、ときには罪を許す面が、ときには怒りが、前面に出る。神が父親であるかぎり、私は子どもである。私は全知全能への自閉的な願望からすっかり脱却できていない。私はまだ、自分の人間としての限界や、自分が無知無力であることを認めるだけの客観性を身につけていない。私は子どもみたいに言い張る-私を救い、見守り、罰する父親がいるはずだ、と。その父親は、私か従順であれば私を好いてくれ、私か讃えれば御機嫌になり、私か言うことを聞かないと怒る。
あきらかに、ほとんどの人はその人格の発達において、この幼児的な段階を脱していない。したがって、ほとんどの人にとって、神を信仰するということは、助けてくれる父親を信じるという子どもっぽい幻想なのである。このような宗教概念は、何人かの人類の偉大な師たちや、ごく少数の人びとによって克服されたにもかかわらず、いまだに宗教の主流をなしている。

「幼児的な段階」というのは、まさに「ヨブ記」で描かれている「神」の姿である。
幸福の科学の信者がそれを以て正しいとするのは、自分たちの信仰が「幼児的な段階」の信仰である、ということを、自ら言っているようなものである。
ほんとうは、「正義」そのものが神である。「真理」そのものが神である。「愛」そのものが神である。
それなのに、特定の人間を「神」とか「預言者」とか崇めるから、他の人間を「悪魔」だと言わなければならなくなり、宗教を原因とする争いが止むことがないのである。
幸福の科学信者が大川隆法を無理に擁護しようとして苦しむのは、その「信仰」が幼稚な段階だからである。

まとめ

少なくとも「迷信」と「信仰」は分けて考えるべきことです。人格神を崇めることは迷信です。ましてや生身の人間を「信仰」するというのは、カルト以外にあり得ません。そのような信仰は、極めて不合理なものであり、人間を不幸にすることはあっても、幸福にすることはありません。
神ではないものが神を名乗ることは、間違いです。大川隆法は自分のことを「法そのもの」と言いましたが、人間が「法そのもの」になることはあり得ません。人間は人間です。
本当ではないことを言って、他人を騙して利益を得る人のことを「詐欺師」と言います。大川隆法は、宗教をタネとした詐欺師であるので、「宗教詐欺師」です。詐欺の中でも、最も不遜な詐欺です。
「不合理なればこそ我信ず」という言葉は、詐欺師の言葉です。神は人間に理性を与えられました。神の創られた世界に、一切の不合理はありません。合理性を放棄した所でやってくるものは、「中世暗黒時代」の再来です。「魔女狩り」や「宗教戦争」の再来です。
仮に日本全国民が幸福の科学の信者になったとすると、一億総思考停止状態となり、日本国民全員が大川隆法を神として崇めることになる。北朝鮮以上におぞましい国家となるだろうことが簡単に想像できます。それを否定する者は「悪魔」のレッテルを貼られて強制収容所に監禁されて大川隆法の講演を延々と聞かされることになるのでしょう(「監禁ではなく懲罰だ」と言われるかも知れません)。
とにかく、自分自身で思考して判断することを放棄したり、先人たちの築き上げてきた人類の叡智を学ぶことを放棄したりすることは、愚かなことです。
信者のみなさんには、「信仰にも段階がある」ということを、よく考えてみて欲しいと思います。幸福の科学では説かれていないことです。大川隆法は、自分の化けの皮が剥がれるから、絶対に説けないのです。

追記

マタイ伝の引用箇所の続きにある

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

というイエスの言葉や、釈尊が臨終のときに言ったとされる「自灯明、法灯明」という言葉や、高橋信次が言った「人につかず、組織につかず、法につけ」という言葉などは、フロム氏の言う「幼児的な段階」の信仰を脱したものだと私は思う。
幸福の科学の初期の頃は、まだそういう考え方が会内にあったのだが、1994年に「方便の時代は終わった」と言って高橋信次を切るのみならず、「人につかず、組織につかず、法につけ」という言葉まで否定してしまったのは大きな過ちであった。そうして「三宝帰依」という原始的な信仰形態──釈尊が臨終の時に「自灯明、法灯明」ということを説いて否定した筈の信仰形態──を持ち出し、自分たちへの批判を許さない体制を作り上げてしまった。それ以降、自称「幸福の科学」という団体の普遍性は大きく失われ、個人崇拝のカルト「オーカワ教」に堕してしまった。

追記2

幸福の科学の信仰は、どんどん退行していっているのだろう。初期の「人につかず、組織につかず、法につけ」と言っていた頃が最も進んでいた。次に、それを捨て、「三宝帰依」と言った段階で、大きく後退した。更に、「判断しなくていいです」と言い、「従順」とか「服従」とかを説き始めた段階で、完全に「幼児的な段階」の信仰になった。
元妻の証言によれば、大川隆法は、普段、「赤ちゃん言葉」で話すそうである。

そうした女性は、大川とタメロに近い言葉で話すんです。飛行機のファーストクラスでは、私もその場にいたのに、大川は赤ちゃん言葉のような甘えた声で、
『○○ちゃん、ボクこれどうすればいいの?』と話しかけた。また、お気に入りの女性職員は『どーじょ』と言いながら、大川にジュ-スを飲ませていたことも。

http://spiruna.blog89.fc2.com/blog-entry-839.htmlより)
こういうのを見ていると、幸福の科学の「信仰」がどんどん退行して「幼児的な段階」になるのも頷けるのである。

*1:http://plaza.rakuten.co.jp/kohitujinopippo/diary/201301230000/のコメント欄