幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

「自力」と「他力」

こちらのブログを読んで、「自力」と「他力」について、少し思うことがありました。
その前に、気になる記述が幾つかあったので、ツッコミを入れます。

宗教は「マーケット」なのか?

「他力の宗教のマーケットは自力の宗教の10倍ある」といわれていますので、宗教として他力は大切な信仰形態です。

「マーケットが十倍ある」ことが、「宗教として大切な信仰形態」になるという理窟がよく分かりません。そもそも、「マーケット」などという、凡そ信仰の世界に相応しくない言葉を使うことに、非常に違和感を覚えます。そういえば、大川隆法もよくそういうことを言っていたような気がします。宗教に対してこういう経済学的な言葉を使うのは、大川隆法の潜在意識的思想がよく現れたものだと思います。
つまり、大川隆法が宗教をビジネスと思っている証拠だと言えます。
「マーケット」というのはガンブロ氏が勝手に言っているのではなく、大川隆法が言った言葉です。ガンブロ氏は大川隆法に忠実に従っているだけです。

この辺に大川隆法の言葉の原文があります。

苦難困難は「信仰の是非あるいは善悪」のせいではない?

また、『会員信者であっても今後も困難苦難はあるかもしれないが、それを「信仰の是非あるいは善悪」の結果として受け取らないで下さい。』とも言われています。

これは、偉大なる宗教詐欺師・大川隆法による言い訳の言葉であり、信者を思考停止させる巧妙なマインド・コントロールの言葉ですね。またしてもガンブロ氏は、無意識に、マインド・コントロールに荷担してしまっています。
私が前回の日記で紹介した、イエスの言葉に反するものです。都合が悪くなると、別のことを言って言い訳するのが大川隆法のやり方です。

「自力」と「他力」

さて、本題です。
ガンブロ氏は「自助努力」と「他力」を比較して、「自助努力」の方が優れている、と言いたいようです。私はそうは思いません。
「自力」と言っても、自分でできることなど何一つありません。自助努力をするにしても、その根底には自分にはコントロールできないものがあります。偉大なる他力があります。意識というものを一つとってみても、自分で自分の意識を生み出したわけではありません。「自助努力」と言っても、その意志は、根本的には自分でコントロールできるものでもありません。親からの教育もあり、様々な周囲の環境もあり、その他、色々なものからの影響を受けて意志というのは構成されているものです。
自力の根底には他力があります。あらゆる宗教の根底には信仰がありますし、もっと言うと、あらゆる活動の根底には神の偉大なる働きがあります。そのことを忘れて「自力」だの「自助努力」だの言っても、何の意味もないと私は思います。

浄土宗のお坊さんに聞いた「他力」の話

ガンブロ氏は「他力型宗教」を批判したいようですが、どうも、ガンブロ氏は大川隆法が説いている(架空の)「他力型宗教」なるものを真実だと思い込み、実際の他力型宗教を見ずに、一方的な思い込みにより「他力型宗教」を悪しきもの(または足りないもの)と錯覚してしまっているようです。
先日、「いの☆フェス」でお会いした池口龍法氏*1に、日を改めて、個人的にお話をお伺いする機会がありました。
池口氏はまだアラサーでお若い浄土宗の僧侶であり、「フリースタイルな僧侶たち」(http://www.freemonk.net/)という組織を立ち上げ、伝統宗教の立場から宗教をより身近なものにして貰おうという試みをやっておられる方です。
その方に「浄土宗と浄土真宗の違いって何ですか」と訊いたところ、以下のようなお返事が返ってきました*2
曰く、浄土宗は、「私には、他の僧侶たちのように、修行をして悟るというようなことはできそうにない。ただ、阿弥陀如来はそういう私たちをも救って下さるという。救って貰いたければ、ただ『南無阿弥陀仏』と唱えるだけでよい。他の難しい修行はいらない。ただ『南無阿弥陀仏』と唱えるのだ」というものであると。「阿弥陀仏様、どうか救って下さい」と願いを込めて『南無阿弥陀仏』と唱えるのが浄土宗であると。浄土真宗は、そうではない。「『南無阿弥陀仏』と唱えなくても、救われているのだ」と。浄土宗はまだ修行をするけれど、浄土真宗は修行が禁止されている(それは個人的には極端だと思う、とも言っていた)。浄土宗は救済のための努力はするけれど、浄土真宗は、それすらしない(禁止されている)。
私が「それでも、浄土真宗でも『南無阿弥陀仏』と唱えるでしょう」と訊くと、「浄土真宗の『南無阿弥陀仏』は、救いを求めて祈るのではない。我々には、救いを求める力すらない。救うかどうかは、阿弥陀仏のお決めになることである。しかし、当然、阿弥陀仏は我々を救って下さる。だから、『南無阿弥陀仏』と唱えるのは、『阿弥陀仏様、有難うございます』という感謝の心で唱えるのである」ということでした。
それで、私が「それは何だかカルバンの予定説みたいですね」と言うと、「そうそう、よく類似性が指摘されるものなんです」というお返事でした。
私の理解では、浄土真宗というのは、ガンブロ氏や大川隆法が想定するような「他力型宗教」ではありません。そもそも、ガンブロ氏や大川隆法が想定するような「他力型宗教」というのは、現実に存在するものなのでしょうか。「他力」というのを、幸福の科学でやっている「祈願」のようなものを想定しているのだとしたら、それは幸福の科学やその他の現世利益的教えを持つ新興カルト宗教の中にしか存在しないのではないか、と思われます。
幸福の科学信者は、「左翼」とか「無神論者」とか「唯物論者」とかいうレッテルを貼り、紋切り型で何でも型枠に嵌めて批判していますが、どうも、現実の存在を見ずに、架空の存在に向かって吼えているだけのように思われます。だから、幸福の科学には、他者の心に響く言葉は伝えられず、現実を変える力もなく、発展するどころか、日々没落しているのだと思います。
ガンブロ氏にも大川隆法にも共通するのは、本で得た知識だけを元に、実体験を経ず、思い込みで現実を判断してしまうということなのかなあと思います。
幸福の科学は、オーカワ教であり、「机上の空論」教です。実体験を元にした教えといえば、「聖なる愛欲経」とか「離婚・再婚の法」ぐらいでしょうか。

「すべての宗教は『他力』である」という意見

色々とググっていたら、とても頷けるブログ記事がありました。

仏教に「自力」と「他力」があるといいますが、「自力」といっても仏と一体になれるように努力することですから、大きな力に身をゆだねるという点では「他力」と変わりがありません。すべての仏教は「他力」であるということができます(『早島鏡正著作集13』282頁など参照)。


「他力」といえば、浄土真宗の親鸞が有名ですが、親鸞は五十九歳のとき風邪で高熱を出したということです。どうしても熱が下がらない。実は、親鸞は衆生利益のためと考えて「三部経」をずっと読んできました。それは自力のはからいであったと反省して、そのような努力をやめようと考えたとき、熱は下がったといいます。五十九歳にして自力を徹底的に捨てる決意をしたのです。これは有名な逸話ですが、この自力を捨てることは、すべての仏教に当てはまることだと思います。すべての仏教は「他力」である。さらにいえば、すべての宗教は「他力」なのではないかと思われます。

云々。私も、この意見には非常に賛成です。「修行」と言っても、結局は「自力」を捨てるための修行なんですよね。
老子』にも、このことを端的に表現した言葉、「学を為せば日に益し、道を為せば日に損ず。之を損じて又損じ、以て無為に至る。無為にして為さざる無し」(第四十八章)という文章があります。「自力」=「学」、「他力」=「道」と解釈すると、分かりやすいかと思います。
幸福の科学の「信仰」は、似たようなことを言いながら、微妙にズレているんですよね。その根本原因は、恐らく、大川隆法という人が実は何にも悟っていなくて、宗教をビジネスと見て、口先だけで自分に都合のよい教えを説いているからなのだ、ということは予想できますが、どこがどうズレているということは、今の私にはうまく指摘できません。いずれ分かったら、また書こうと思います。

*1:同じ「リュウホウ」なのは偶然です。本人に「某カルト教団教祖と一緒ですね」と訊いたところ、「この名前で得をしたことはないね」というお返事でした。

*2:私の記憶によるので、ニュアンスや意図は違う恐れがあります点、ご了承下さい