幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

きづな

2011年の「漢字」にも選ばれた「絆」。現代仮名遣いでは「きずな」と書くが、元々は「きづな」。「生綱」とも表記される。
世の中の人を見ていると、必ずしも健康な人ばかりではない。ハンディキャップを背負っている人は少なからず存在する。それは、身体的なハンディキャップのみならず、精神的ハンディキャップもある。
健康な人は、ハンディキャップを負った人に対し、冷たい視線を送ることが少なくない。
私は、毎日のように痛ましい事件が報道されているのを見て、悲しい気持ちになることがよくある。
どうして、犯罪者というのは、こういう人を傷つけるような行動をするまでに至ってしまうのだろうか、と思う。
思うに、きっとそれは、社会の「きづな」からはぐれてしまった人なのだと思う。もし、一人でも心から信頼でき、話を聞いてくれる人がいたら、それだけでその人の心は収まったのではないか、と思う。
いじめがいけないのは、「きづな」が断ち切られ、孤独になってしまう人を作り出してしまうからである。
人は、一人では生きられない。人と人とのつながりが絶たれたところに孤独が発生し、犯罪者を生むのだと思う。
社会から遊離した存在というのは、作り出してはいけないと思う。「村八分」は良くない。仲間外れは良くない。どんなに変な子でも、仲間に入れてあげる社会が理想的な社会だと思う。
少し前、イエスの「一匹のはぐれた羊」の比喩を引用したことがあった。

あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

新約聖書・マタイによる福音書第18章より引用。)
私はクリスチャンではないし、聖書を愛読しているわけでもない。でも、ここの部分は真理だと思う。
人間には、健康な人もあれば、ハンディキャップを負った人もいる(肉体的な意味でも精神的な意味でも)。健康な人は、ハンディキャップを負った人をいたわる義務があると思う。
しかるに、「幸福の科学」では、ベンサムの言葉を持ち出して、「最大多数の最大幸福」ということを言っている。それはつまり、迷わないでいる九十九匹のために、迷った一匹を見捨てるということである。信者からは異論があるであろうが、実際の行動はそうなっている。批判勢力は「悪魔」と言って追い出したり、「ゴキブリ」と言って切って捨てようとする。また、「金持ちが多いほど、全体的な利益は多くなるのだ」と言って、「格差社会」を肯定している。竹中平蔵新自由主義的考え方に基づく小泉改革により、格差社会は拡大した。その結果、貧困層は拡大し、「きづな」からはぐれる人々も続出するようになった。
私は、そういう考え方には絶対に賛成できない。それは、信者であった時から、薄々、思っていたことである。私のような考え方を持つ者が「幸福の科学」を離れることになったのは、必然であったと思う。
「きづな」からはぐれる人を、私は出したくない。私は、全ての人が「きづな」によって繋がれ、一人も孤独を感じることのない社会、それがユートピア社会だと思う。「幸福の科学」は、「仏国土ユートピア社会の実現」などと言いながら、逆の方向へ向かっている。私は、「幸福の科学」のせいで、友人を多く失った。恋人も失った。親子の縁も失いかけた。「幸福の科学」の思想の根底には、「一千億年の孤独」というのがある。だから、どこまで行っても孤独なのである。
幸福の科学」の退会を切っ掛けに、それまで封印されていたものが解けたように、それまで未知だった人との繋がりが次々とできてきた。今の私には、多くの「きづな」がある。これは本当に有難いことだと思っている。
幸福の科学」の人に言いたいのは、そうやって特定の指導者の下に集まり、一定の思想を奉ずるグループを作って活動するのは構わないのだけど、「自分たちだけが特別」という意識を捨てなければダメだと思う。「自他一体」とか言いながら、自他を分け隔てる教えばかりがある。例えば、「世間の人の半数以上は地獄に堕ちている」と言う一方で、「幸福の科学の信者で地獄に堕ちた人はいない」とも言っている。「国民はマスコミに洗脳されている」と言ったり、世間の人を敵視したり、世間の人をレベルが低いものと見なしたりする教えが非常に多い。「宇宙の法」というのが説かれ始めて、その傾向が益々加速している。「私は○○星人である」とか言って、自他の差別意識はどんどん強くなっている。仰木の里の住民に対しても、差別意識が非常に強く、協調性が全く感じられない。
「格差社会」の先にユートピアはない。「最大多数の最大幸福」は、所詮は机上の空論であって、断じて神の望むユートピア社会などではない。健康な九十九匹の羊が、迷っている一匹の羊のために心を配る社会、それがユートピア社会だと私は思う。どんな悪人でも、人間である限り、一人も脱落させてはならない。それが、ここまで多様な人間を創造されている神の意志だと思う。
そういう「自分たちだけは特別」という意識は、自他を分け隔てるもので、人と人との「きづな」を引き裂いていくものです。
私は、「幸福の科学」の中の、「ユートピア社会を実現しよう」とする意志は認めます。しかし、実際の「幸福の科学」の教えの内容は、ユートピア社会実現のためには害悪でしかありません。
だから、私は、「幸福の科学」が完全に潰れるまで、アンチ活動を続けます。かつての仲間である「羊」たちが迷い続けている限り、私は最後の一匹まで、探しに行くつもりです。一生をかけて、探しに行くつもりです。