幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

罪悪感と救い

アンチ活動の動機というのは、特定の人に対する思いが根底にあることが多いようだ。他のアンチの方を見ていてもそうだし、私自身もそうである。
私の心の奥底には、消えない罪悪感がある。(普段からそういうことを考えているわけではないが。)
具体的なことは書けないが、今まで生きてきた中で、よかれと思って為したことが、結果的に相手を大きく傷つけることになったりしたことが度々ある。そういうことは、渦中にいる時には気付かないもので、「自分はいいことをしている」と確信するまではいかなくとも、「少なくとも、これが今の自分にできる最善のことである」ぐらいには思って行動していた。でも、あとで振り返ると、しなくてもよいことをしたり、言うべきでないことを言ったりしていたと気付くのである。結局、自分のやりたいようにやって、自己正当化のための言い訳をつけ、自己中心的に振る舞って相手を傷つけてきただけではないか、ということを思う。
私は、何をやっても、罪の数は増えていくばかりである。
そして、経験上、罪悪感というのは、決して消えることがない。
幸福の科学」の信者であった頃は、「人間は神の子、仏の子であって、本来、罪を犯す存在ではない。自分は『幸福の科学』の信者であり、日々『正心法語』を誦み、真理の書籍を読み、信仰生活を送っているから、基本的に間違ったことをする筈がない」という感じで、自分自身を一点の穢れもない存在であるかのように思っていた。
退会して一年余り経つが、そういった考え方が間違いの根本であったのではないかと思うようになった。自分を「光の存在」と捉えるような考え方は、人間を傲慢にさせ、平気で人を傷つけたり、罪を犯したりして恥じることのない人間をつくり出すのではないか、と思う。
私はこれまで、間違いの多い人生を歩んできたし、今までに出会った多くの人々を傷つけてきた。人から恨まれるようなこともした。「幸福の科学」を退会したからと言って、何十年という時間の中で培ってきたそんなにすぐ性格が変わるわけでもないし、完璧な人間になったわけでもない。これからも、罪を重ねて生きていくことになることは間違いない。
しかし、私の場合、罪の意識があるからと言って、苦しいこともない。それはたぶん、その罪が許されているということを知っているからである。神様が私を日々生かし育み導いて下さっていることを確信しているからである。(「神様」と言っても、特定の名前のある神様ではない。全人類共通で、全ての存在を愛しておられる普遍的な神のことである。)
私は、罪の意識というのは、正しく大人になるために、必要なことなのではないか、と思う。
卒業シーズンの定番である『贈る言葉』の歌詞の中に、「人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから」という一節がある。子供が学校を卒業して大人になる段階に当たって、まさに相応しい「贈る言葉」だと思う。

親鸞聖人は、自分のことを「極重悪人」と呼んだと言う。私はその気持ちが何となく分かる気がする、と言ったら失礼かもしれないが、大川隆法やその信者のように親鸞聖人のことを「善悪の判断がつかない人」などと言って切って捨てる無理解な人たちよりは、ずっと、理解できていると思う。
私の考えでは、罪悪感は一生消えることがない。それが正常。しかも、求めずとも救いは既に与えられている。「生きている」ということそのものも救いであるし、罪悪感を持てること自体が神様から与えられた救いそのものでもある。罪悪感を持っていると、謙虚になれるし、人に対して優しくもなれる。人の悲しみや苦しみが分かり、自己中心的な生き方や態度を改めることができる。
世の中には、「罪悪感」を悪いものであるかのように考えている人が多いようで、そのギャップに少し驚く。私の言う「罪悪感」と、世間の人の言う「罪悪感」は、違ったものなのだろうか。
罪悪感を消そうとすることに、意味はないと思う。罪悪感は一生消えない。それを抱えて生きるというのが、「人生」ということなのだと思う。

追記:「『過去清算の秘法』─特別灌頂─」について

幸福の科学」では、「過去の罪が全て許される」という触れ込みで、「『過去清算の秘法』─特別灌頂─」というものが行われています。かつては確か総本山・正心館限定でしたが、後に地方の各精舎でも開催されるようになりました。ご奉納目安は一回十万円。
私も三十歳を過ぎた頃、罪悪感を非常に強く感じていた時期があり、聖地・四国正心館で「『過去清算の秘法』─特別灌頂─」を受けたことがあります。照明を落とした特別祈願室の暗闇の中で、エル・カンターレ像に向かって五体投地し、法衣を着た導師に、後頭部に聖水を数滴かけてもらうというものです。
今思えば、実際には何の効果もないインチキ儀式なのですが、当時は、「それで罪が許されるのだ」と思い込み、「これで罪が許された。よかった」と思って、自分で自分の罪悪感を解き放ってしまいました。今思えば、手放してはいけないものをカルトの洗脳により手放してしまったのだと思います。
その結果、またしても同じような過ちを繰り返すことになりました。「自分は『過去清算の秘法』を受けたのだから、『業』は全て清算されている。私は日々『正心法語』の全編読誦もしているし、私がしようとすることに、間違いがある筈などない」と思い、また、自己中心的に振舞い、他人を傷つける結果となってしまいました。
「罪悪感」というのは、やはり、神様から与えられた大切な宝物なのだと思います。二度と同じ過ちを繰り返さないために必要なものだし、人が正しく生きるために必要なものです。それを捨てるなんて、とんでもない。