幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

「幸福の科学」が会内ですら「ユートピア」を実現できない理由

以前にも、

この辺の記事で、「幸福の科学」内部での諍いを取り上げたのですが、またしても一騒動あったようです。
詳しくは、

こちらをご覧下さい。
せめて信者同士で「ユートピア」なるものができていればまだしも、全くできないのだから、どうしようもありません。今は、何か攻撃すべき敵をみつけてまとまっているしかない状況のようです。それはレムリア・ルネッサンスであったり、きょう子さんであったり、種村さんであったり、アンチであったり、北朝鮮であったり、中国であったり、レプタリアンであったり、悪質宇宙人であったり、悪魔であったり、仙人であったり、裏宇宙の邪神であったり、民主党であったり、左翼であったり、仰木の里の住民であったりします。
幸福の科学」に居る以上、そういった闘争から逃れることはできません。本当は、あるがままで世界は調和に満ちているというのに、「幸福の科学」の会内の教えを熱心に学べば学ぶほど、世界は常に闘争の中にあるという認識になってしまいます。

差別心があることが争いの元であると思う

掲示板にも書きましたが、W布教所氏の文章を読むと、「幸福の科学」信者の独善的態度、「自分は正しくて、相手は間違っている」という姿勢がよく見て取れました。ただし、W布教所氏の言葉にも一理あって、やはり、人を「表」とか「裏」とか言って差別するのは良くないことです。そうやって信者同士でも差別をするから、会内でもユートピアができないのです。
で、私は信者ではなく思想的に自由な立場なので言いますが、その「表」とか「裏」とかいう世界観自体が間違っているのです。

高橋信次に端を発する毒素

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これは、高橋信次の説いた霊界観です(「幸福の科学」の霊界ランキング 〜9次元:大川隆法、8次元:バッハ、7次元:夏目漱石、地獄:ニーチェ - ちゆ12歳より)。
この図の「仙界」「天狗界」というのが、「幸福の科学」では「仙人界」「天狗界」ということになっています。「地獄界」とは別に、人々が普通にイメージするような天国とは別の世界がある、としたのは高橋信次のオリジナルではないかと思われます(それ以前にもいた可能性はありますが)。
で、大川隆法は、この霊界観をそっくりそのままパクったくせに、のちに、こともあろうに高橋信次その人を「仙人界」の一人として認定しました。
「正・反・合」でも、「守・破・離」でもいいのですが、元となった理論や教えを否定することは悪いことではありません。人類がより正しい思想を完成させていくために、必要なことです。それは、「幸福の科学」も説いている「発展の原理」にも含まれている筈です。
その意味で、本来、高橋信次を否定するなら、この差別的な霊界観も否定しなければならなかったのです。霊界を認める立場でも、真っ当なスピリチュアリズムでは、このような差別的な霊界観を否定しています。
ところが、高橋信次に端を発する毒素は、その誤りが訂正されることなく、逆に大川隆法によって増幅され、「幸福の科学」を通じて世間に垂れ流され続けています。

真理は融通無碍なものである

幸福の科学の「次元構造」とか「表・裏」と言った霊界観は、その教えの根本にあるものですが、それ自体に含まれる毒素が、実は非常に大きいのです。大川隆法が根本仏であることを疑う信者や、非活動信者も、その霊界観は正しいと思っていますが、一般に、間違いというのは絶対と思っていることの中から起こるものです。
真理は、常に物事の一側面しか現していないものです。「真理は常に半真理である」と私は言うことにしています。この言葉は矛盾しています。私は、「真理であると同時に矛盾している」というのが本当の真理だと思っています*1
「真理は真理として固定してしまった時に、既に真理ではない」と私は考えます。換言すると、「真理というのは融通無碍なものである」ということです。
たとえば、「愛は与えるものである」と固定してしまった時に、愛は既に死んでしまっています。そういう固定された真理を信奉する「幸福の科学」の信者は、独善的な押し付ける「愛」の表現しかできなくなります。それは真理の一側面でしかないので、それが功を奏する場合もあれば、逆効果となる場合もあります。
「霊界」とか、不可知な事柄であるなら、尚更のことです。始めに戻ると、「表」とか「裏」とかいう霊界観自体が間違っているのです。それは、真実の霊界観ではありません。根本的な教えの中に間違いが含まれているから、「幸福の科学」の信者は、会内でも「ユートピア」を作ることができないのです。

*1:例えば、「諸行無常」という言葉。「諸行無常」という言葉は真理でありながら、「諸行無常」という言葉自体には「諸行無常」が当て嵌らない