幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

「岩戸開き」について思ったこと

大本信徒連合会の弥仙山岩戸開き110年記念祭典に参加してきた

まず、前置きとしての話です。
概要はこちら。

「岩戸開き」と言えば、日本の神話で描かれているものなのだけど、大本でも「二度目の岩戸開き」ものがあり、それから百十周年記念ということで、祭典が行われた。祭典そのものは毎年あるけれど、弥仙山の山頂まで登って行うのは、十年に一度らしい。
私の理解で説明すると、要は、百十二年前、出口なお出口王仁三郎の行動に腹を立て、家出をしたことがあった(=岩戸隠れ)。出口なおは一週間ぐらいで戻ってきたものの、精神的な「岩戸隠れ」の状態は続いた。しかし、二年後、娘(=木の花咲耶姫)が生まれ、それを切っ掛けに仲直りをして、みんなで弥仙山にお参りして、二度目の岩戸開きの神事を行ったのが、百十年前(明治三十六年)の四月二十八日ということだそうだ。
ちなみに、現在の大本教は、大本信徒連合会と大本本部に分裂していて、祭典も両方が行っている。バッティングしないように祭典の場所や日時が調整されるらしく、大本本部の祭典は四月二十八日、大本信徒連合会の祭典は四月二十七日ということになっていた。
二度目の岩戸開きというのは、百十年前に行われたことであるのだけど、それもやはり「型」の一つであって、現在は、第三次大本事件(大本本部と大本信徒連合会がこのように分かれている状態)を解決することが「岩戸開き」ということになるようである。
「一度目(神話の岩戸開き)」と「二度目(大本での岩戸開き)」で、何が違うかというと、一度目は、天の岩戸に岩戸隠れをした天照大神を、騙して引っ張り出したということがあった。そうやって「嘘を吐いて岩戸開きをしたことはいけないことだった」ということであり、だから、二度目の岩戸開きは、嘘を吐くことなく、ただひたすらまことの心で行うのである、ということである。

当日の様子

四月二十七日、朝八時半に綾部の愛善荘をバスで出発。バス代は千円で、しかもお昼のお弁当付き。当日はそれ以外に金銭を要求されることは無かった。「幸福の科学」の信者の立場からすると、あり得ないぐらい安くて、「本当にこれだけでいいの?」と心配になるぐらいだった。だが、カルトではない普通の宗教というのはこういうものなのだろう。「幸福の科学」では何かにつけ高額の布施を要求されたが、それと比べると、天と地ほど違う。
バスで数十分、麓まで着いたところで降りて、登山開始。高さは664m、その辺一帯では一番高い山だそうだ。天気は晴れていたが、前日の雨で少しぬかるんだ山道を一時間強歩いたところで、山頂に到着。
人数は、正確には数えていないけれど、老若男女問わず、数十名程度いたと思う。祭典は滞りなく行われ、その後下山。
祭典そのものは、よくある神社の神事と似た感じで、とても良かった。

ここから本題

以下はもう祭典とは関係ない話で、帰って一晩寝てから思ったことなのだけど……。
と言っても、うーん、どう説明したらいいのか。
全ての人に当て嵌る問題ではないと思う。私自身の問題として書くけれども、「岩戸開き」ということで考えると、例えば、誰か自分に対して心を閉ざしている相手に対し、「相手に岩戸を開いて欲しい」と思うことは、それは何か違うのではないか、と思った。そこには、結局、相手を自分の思い通りにしたいという思いがある。相手を支配しようとする心がある。もっと言うと、自分は正しくて、相手は間違っているということが前提になっている。独りよがりな自己中心的な考えがある。相手を自分の主観で以て裁く心がある。
結局のところ、「岩戸開き」を願う心というのは、自己の支配欲でしかないのではないか。
欲望は、叶えられれば快楽が訪れるが、それが叶わぬ時、苦しみが生まれる。仏教の「四苦八苦」の中に、「愛別離苦」とか「怨憎会苦」とか「求不得苦」とかいうのがあるが、要は、他人が自分の思い通りにならないということだろう。「支配できる」と思っていたものが、支配できなかったとき、そこに苦しみが生まれる。
その対極にある考え方は、やはり、「足ることを知る」ということだと思う。
人は、支配できないものに対して、自分の思い通りにならなかったとしても、そこで苦しみを作ることはない。例えば、天気は日々変化する。晴れの日もあれば雨の日もある。人が天気を支配することは、今のところはできない。だから、雨の日は、それが嫌だとしても受け容れるものである。
それと同じように、自分の意に沿わぬ言動を取る他人(と言っても自分の家族などを含む)は、端から自分の思い通りにならない存在だと知ることが大事なのではないか、と思った。
「裁くなかれ」ということは、宗教の世界ではよく言われることである。これを、今の文脈に沿うように換言すると、「支配しようと思うなかれ」ということなのかなと思う。他人の心というのは、自然現象と同じようなもので、自分の意のままに操ることは不可能なものである。

まとめ

つまり、「岩戸開き」の祭典に参加した結果、「岩戸開き」を願う心そのものが、私には不要なものなのではないかと思うようになってしまった、ということ。決して大本教の祭典にケチをつけるわけではないことはご了承頂きたい。ただ、私個人の問題として、これ以上余計な苦しみを作らぬために、「岩戸開き」を願うのは止めようと思うようになった、という話。
理想はやはり、無為自然の道。人為を廃し、ただあるがままを受け容れて生きて行きたい。上善は水の如し。能く嬰児たらん。