読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

「愛」について思うこと

教義批判 重要

先月のブログ村「幸福の科学」カテゴリ内での信者同士の言い争いを見ていた方で、そこに「愛」を感じた人はいなかったに違いない。
思うのだけど、大川隆法が説き、「幸福の科学」が根本教義のように考えている「愛の発展段階説」というものは、やはり「説」に過ぎなくて、間違いなのではないだろうか。
もし、「愛の発展段階説」というものが人類共通の普遍の真理だとするなら、過去に似たようなことを説いた人がいた筈である。ところが、そういうものはいない。
ならば、それは今まで隠されていて、大川隆法が人類史上初めて悟った真理である、とすることもできなくもない。しかし、大川隆法自身は「愛の発展段階説」と言っている。「説」なのである。実証し、検証するのは、その教えを実践する信者一同である。その信者の姿をみるにつけ、どうも、「愛の発展段階説」というのは間違いなのではないかとしか思われないのである。

幸福の科学」信者の思考

幸福の科学」では、「霊界」の存在を認めていて、霊界の次元構造説を唱えている。生まれてくる前にいた世界、そして死後還る世界は、四次元から九次元になっているという。何万年、何億年という転生輪廻の中で、それぞれ「霊格」というものがある程度決まっている。例えば、大川隆法は九次元霊であり、キリストも九次元霊、マホメットは八次元霊、松下幸之助は七次元霊、などとなっている。
で、それぞれの「次元」に当て嵌めて、「愛の発展段階」があるという説が、「愛の発展段階説」である。それによると、四次元は「本能の愛」であり、五次元は「愛する愛」であり、六次元は「生かす愛」であり、七次元は「許す愛」であり、八次元は「存在の愛」であり、九次元は「救世主の愛」であるということである。
「愛する愛」などという、おかしな日本語になっているのは、これの元となったのが、大川隆法日蓮から受けたインスピレーションであるとする「人を愛し、人を生かし、人を許せ。」という言葉であるからである。
そのインスピレーションを元に、当時高橋信次の教えを学んでいた大川隆法が、その受験秀才ぶりを発揮してそれを次元構造に当て嵌めて唱えたのが「愛の発展段階説」である。
幸福の科学」の信者の多くは、自分たちを六次元存在だと思っている。というのは、七次元は天使や菩薩の世界と言われており、一万人ぐらいの人を救済(伝道)した者が還れる世界だと言われている。だから、そう軽々しく「自分は七次元出身です」とは言えないのである。
一方、四次元とか五次元出身だとも思わない。というのは、「幸福の科学」の教えを信ずることができるというだけで、それなりに優秀な魂であるということになるからである。そうして、大体、自分たちは六次元あたりだろう、と思っている。
だから、殆どの信者は、自分では「愛する愛」の段階は卒業しているし、「生かす愛」をしていれば良いのだ、と思っている。

最も問題の大きい「生かす愛」

退会して一年余り経ち、現段階で、「幸福の科学」の愛の教えで最も弊害が大きいと思うのは、この「生かす愛」というものである。「幸福の科学」の言う「生かす愛」というのは、どうやら、本当は「愛」とは呼べない代物なのではないか。信者同士の言い争いを見ていると、単なる自己中心的思考の押し付け合いになっていて、裁き合戦になっていた。それは「幸福の科学」の用語で言えば、「裏の世界」の話なのではないか。ポン吉さんが言っていた「レプタリアン」の世界なのではないだろうか。
「生かす愛」は愛にあらず、と私は思う。大川隆法が「人を愛し、人を生かし、人を許せ。」というインスピレーションを受けたことは良いとして、その言葉も良いとする。しかし、それは単に大川隆法自身に対する修行課題であって、全人類共通の普遍の真理などではなかったのではないか。ましてや、それを「次元構造」に当て嵌め、「愛の発展段階説」などというものをでっち上げたことは、大きな間違いだったのではないか。
信者のみなさんにも聞きたい。「愛の発展段階説」は、どうして「説」などという言葉がついているのだろうか。「大宇宙の根本仏」であり、地球に於ては「神々の主」であり、「イエスが『天なる父』と呼んだ方」であり、「再誕の仏陀」でもある筈の大川隆法総裁先生は、どうして「愛の発展段階説」などと、「説」を付けて語っているのでしょうか。私にはとても不思議に思われます。

そもそも愛は差別を嫌うものである

だから、「愛」には「発展段階」などというものはない。「愛」は「愛」あるのみであり、上下や高低の別はない。まあ、「深さ」には違いがあるかも知れないが、種類に違いはない。あるとすれば、「本物の愛」と「偽物の愛」があるのみである、と私は思う。
例えば、倉田百三氏は、以下のように述べている。

私は今は隣人の愛のみ真実の愛であると信じている。母子の愛と男女の愛とは愛と異なるのみならず、相そむくものである。それは愛ではなくてエゴイズムの系統に属するものである。多くの人はこれを混同している。そして自分のエゴイズムをジャスチファイし、わがままを振舞いながら、隣人の愛のみの受くべき冠にあずからんことを要求している。彼らは他人の運命を傷つけながら叫ぶであろう。私は愛している。善事をなしていると。けれども善き愛、天国の鍵となる愛はキリストが「汝の隣りを愛せよ」と言ったごとき、仏の衆生に対するがごとき隣人の愛のみである。真の愛は本能的愛のごとく甘きものではなくてそれは苦き犠牲である。母子の間、恋人の間に涙と感謝とのあるときは両者の間に隣人の愛の働いたときである。骨肉の愛と、恋愛とが本来の立場を純粋に保つならばそは闘争であり、煩悩である。生物と生物との共食いと同じ相である。

幸福の科学」信者に見られるのは、自己中心的考えを「生かす愛」と呼んで正当化している姿である。ここで倉田氏が言っている「エゴイズムをジャスチファイし、」そして、「私は愛している。善事をなしている」と言っている姿である。それは、本当の愛ではない。「幸福の科学」の「生かす愛」とは、本当の愛ではない。それよりも、「幸福の科学」の教えでは低く見られている「隣人の愛」の方が、本当の愛である。「幸福の科学」が「愛を説いているのに愛のない団体だ」と言われる所以は、「隣人の愛」を低く見過ぎているせいだと私は思う。しかも、その上に「生かす愛」などという、愛でも何でもないものを被せて蓋をしてしまっているせいだと思う。
倉田氏が説く本当の愛とは、以下のようなものである。

けれど認識より発する愛――隣人の愛、まことの愛のときにわれらは峻しきこの対立を感ぜずにはいられなくなる。そこに愛の十字架がある。私は愛を証するものは十字架のみであると思う。十字架を背負わずに愛することはけっしてできない。隣人の愛をもって何人かを愛してみよ、そこに必ず十字架が建つ。自分の欲しい何ものかを犠牲にしなければならない。ある人を自分は真実に愛しているか、いなかを知るには自分はその人に対していかなる犠牲を払ったかを省みればよい。そして何の犠牲をも払っていないならば愛していると思ってもじつは愛してはいないのである。カントが苦しんでなされた行為のみ善であるといったごとくに愛を証するものはただ犠牲である。

云々と。

「与える愛」の問題

もう一つ根本的な問題として、「与える愛」の問題がある。
幸福の科学」では、「奪う愛から与える愛へ」と言って、与えることが正しいとしている。しかし、そこに「抑圧」があり、心を歪なものにする種がある。
倉田百三氏は、「与える」ということについて、以下のように述べている。少し長くなるが、引用する。(「人と人との従属」より)

人と人とは互いに求むるときにのみ初めて従属する。愛したい願いのみあって、愛されたい願いのないところでは幸福な交わりは生じない。恋人同士が幸福なのはそこにある。そして私たちの心の底には実際に愛されたい願いがあるのである。それをなぜ無理に殺さなければならないのであろうか。求めてもなかなか与えてくれるものではない。それは事実である。けれどもそのためなぜに愛されたい願いを捨てなくてはならないか? その願いは善い純な人間性の稟有するところのものである。純な善い願いはいかなることあるも殺してはならない。人間の生命はただそれのみに繋がって意味を有するのである。もし愛されたいと願っても愛されないならば歎くがよい。そして歎きつつなお愛されたいと願うがよい。それが本道である。

私の言葉で言えば、まず「愛されたい」と思うことを抑圧してはならない、素直に表現してその自分自身の感情も受け止めよ、ということを言っているのだと理解した。
続けて、以下のように述べている。

理想をあきらめてはならない。愛されたい願いが善い願いならば事実として愛されなくとも、死ぬるまで依然として愛されたいと願うべきである。人間に宗教があるのはそれがためである。
(中略)
現実においてこの願いはみたされないとみたのは親鸞であった。ゆえに彼は宗教の彼岸においてこの願いをみたさんことを工夫したのである。絶対に仏に愛されることと、成仏して絶対に衆生を愛することとを信じたのである。私たちは愛されたい願いと愛したい願いとを持っている。この願いはけっしてあきらめられず、またあきらめてはならないものである。
(中略)
人の愛を受け入れない、ある人は求めず、与えず、魂の扉を堅く鎖して孤立する。ある者はただ与えようとのみ努めて求めず訴えない。この二つは近代の優れた真面目な人々が傷つけられたために本心にそむきつつとるに至りし最も悲しき態度である。しかし孤独はけっして純な願いではない。また与えようとのみするのは傲慢である。なんらかの生活の条件を他から負わずに生きることはキリストでも釈迦でもできはしなかったのである。この点から見れば求めずしてただ与えようとするよりも、太陽の光をも神の恵みと感じたフランシスの方がはるかに合理的である。われわれは被造物であることを忘れてはならない。

「悲しき態度」とか「与えようとのみするのは傲慢である」ということを言っている。まさに、「幸福の科学」の「与える愛」の姿のことを言っている。「幸福の科学」の信者は、よく「上から目線」と言われるけれど、その教えの根本に傲慢の種が潜んでいるから、それは当然なのである。
略した部分や前後の文脈を読みたい方は、上のリンクから飛んで言って読んでみて下さい。もっと深く愛について語られていますし、もっと深く愛について考えることができます。

まとめ

今回は、まず「『生かす愛』は愛にあらず」ということを述べ、次に「『奪う愛から与える愛へ』という考え方が『幸福の科学』の思想上の根本的な欠陥である」ということを述べました。いずれも、大川隆法の「愛」に対する考察の浅さや、体験の未熟さから来る欠陥です。これで「愛の神エル・カンターレ」などとのたまっているのだから、もう「愛」を愚弄するのもいい加減にしなさい、と言いたいです。これ以上、「愛」という言葉を使って毒を撒き散らし、信者の心を迷い狂わせ、信者と関わる人々の心を傷つけることは、許されないことです。