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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

大川隆法の神道理解の浅さ

こちらの記事から、まず、大川隆法の発言部分のみを孫引きします。
『繁栄の法』第二章「霊界の真相」には、以下のような文章があるそうです。

そして、伝統的には、それがアニミズム(自然崇拝や精霊崇拝)のようなかたちになっています。 日本神道にもそういう面があります。
そのため、木や石など、いろいろと自然のものを崇拝します。また、動物崇拝もあります。 イノシシ、狐、猿、蛇など、人間にはないような異常な精力を持つ動物を、 「これは神ではないか」という畏れを持って崇拝するのです。
このように、人間界以外の自然に対する信仰が日本にはあり、それが連綿と続いてきています。 これは西暦500年すぎに仏教が日本に入ってくる前から続いている流れであり、 いまでも日本人の文化意識のなかに強く残っています。
(中略)
アニミズムも一概に否定はできないでしょうが、それは後れた宗教であると言わざるを得ないのです。
もっとも、日本だけが後れているのではありません。インドもそうです。インドでは、仏教はほとんど滅びましたが、 いまも生き残っているヒンズー教を見ると、日本の自然崇拝とあまり変わりません。 ガンガー(ガンジス河)を神として祀ったり、 猿などの生き物を一生懸命に崇拝したりしています。これは日本のアニミズムと同じです。
このように、太古返りをしたような宗教が現在でも根強く生きています。教えに基づく宗教、価値観を教える宗教においては、 「考える」ということが必要になるので、考えることが苦手な人びとは、考える必要のない方向へ、簡単に戻ってしまうのです。
しかし、それは人間が動物の世界へと押しやられていることを意味しています。 「自然はそのままでありがたい。森がありがたい。山がありがたい。川がありがたい」というのは、 野生動物の考え方そのものです。

とのこと。
ここでの大川隆法の主張のポイントは、「神道にはアニミズムの面がある」ということ、「アニミズムは後れた宗教である」ということ、それは「太古返りをしたような宗教」であるということです。

鎌田東二氏による神道論との比較

私も信者時代は「神道はアニミズムで後れた宗教である」という大川隆法の「教え」を鵜呑みにしていたわけですが、退会してから、様々な神社へ参拝し、祭りにも参加するようになり、この評価はおかしいと思うようになりました。
ちょうど、この間読んだ宗教学者・鎌田東二さんの『神道とは何か』という本に、大川隆法の考え方に対する批判となる文章が載っていたので、その部分を引用して紹介します。
鎌田東二著『神道とは何か』第二章「日常に宿る神道」より。

1……外国人が感じる自然の神
◆進化論的視点から見た文化的偏見

と題して、まず初めに『古事記』を英訳したチェンバレンのことを述べておられます。

 そのチェンバレンは『古事記』を荒唐無稽なポルノグラフィー的物語であると見なした。例えば、『古事記』冒頭の、伊邪那岐命伊邪那美命の性行為によって島々を出産する国生みの物語や、天宇受売命が神がかりとなって天の岩屋戸の前で乳房や陰部を露にする箇所など、日本神話に見られる、豊饒信仰に基づくおおらかな性的表現をチェンバレンは猥褻と受け止めた。そして文化的に野蛮で遅れているとの印象を持った。これは、倫理的にも道徳的にも信仰的 にも文明的にも最も高度に進化発展したものがキリスト教と西洋文明であるという立場からすれば、当然の帰結であろう。
 チェンバレンは十九世紀ヨーロッパに広く流布した進化論的な図式において文化文明をとらえた。すなわち科学革命と産業革命を生み出した西洋文明と、科学革命を精神史的に準備してきたキリスト教やギリシャ哲学など、西洋社会を支えてきた思想や宗教や文化の流れが、人類史における最も高度に発達した文化であり文明であると考えていた。
 このような観点からすると、東洋やアフリカや北米南米の先住民族の文化、文明は、辺境の遅れた野蛮な文化であり文明であるとされるであろう。こうした文化進化論的、社会進化論的なものの見方で考えていくと、神道はアニミズムシャーマニズムを根幹に持つ原始的な宗教であるから野蛮で低俗なものであるという見方が生まれてくる。十九世紀の西洋社会の文化人類学者や宗教学者や日本研究者にはそうした見方が拭い難くあった。またそういう見方が今なお文化的、文明的偏見を生み出している例もある。

どうも、大川隆法は、このチェンバレンの「偏見」をそのまま鵜呑みにしてしまっているようです。鎌田氏は、これに続けてもう一人の外国人、ラフカディオ・ハーンのことを述べ、チェンバレンの説と対比させています。少し長くなりますが、一気に行きます。

ラフカディオ・ハーンはチェンバレンとは逆に、外から日本文化を研究し、それを西洋社会に対照して、西洋が進んでいて日本が遅れているとは考えなかった。むしろラフカディオ・ハーンは東洋のこの島国の中の最も原型的、原像的な人類文化の宝物が残されていると考えた。少なくともラフカディオ・ハーンの神道理解はそのようなものであった。同じ西洋人から見た日本像・神道像とはいえ、チェンバレンとハーンの神道理解は百八十度の相違があった。
(中略)
神は場所に宿る。風土と共にある。杜の中に住む。具象的に事物や事象や時空の中に働いている何ものかを、ハーンはいきいきと、きわめてクリアに認識し、感知したのである。
これはハーンの経歴と詩的かつ霊性的能力によって初めてなし遂げられたものであろう。ハーンは出雲大社に参拝し、その出雲大社の神官に、母のふるさとであるギリシャの古代の神官の姿をかいま見た。今ここにギリシャの神々に仕えた神官と同じ風格と伝承を持つ人がいる。しかもその人が目の前に神々の子孫として肉体を持って現存している。神道がそのような生きた文化として、いのちとして、具体として存在する。それにハーンは子供のような素直な驚きと喜びを感じている。
おそらくハーンが育ったアイルランドのフェアリーテイルズ(妖精譚)や怪異伝承、神秘的な民俗事象を通して、ハーンの血となり肉となったゴーストに対する感覚が基層にあって、その上で、折口信夫のいう「間歇遺伝(あたゐずむ)」が日本の風土に来て一挙に開花するような、霊性的な感覚の開かれをハーンは体験したのではないか。
日本に来たハーンの初期の作品には、アニミスティックな世界をそのまま喜びを持って感知する、繊細で瑞々しい表現が随所に見られる。こうしたハーンの記述を見ていると、万葉人の歌の世界を思い浮かべる。万葉集時代を生きた人々の東歌やまた柿本人麻呂大伴家持といった著名な歌人を含めての、詩的感性の世界がラフカディオ・ハーンの感性の中にも共通して見てとれるのである。


◆詩的理解こそ神道の神髄
神道は詩的に理解しなければその神髄はわからない。つまり美的価値、美的感情、美的様式を抜きにした神道というものはあり得ないということだ。
日本人の宗教を美の宗教と見る人がいる。含蓄のあるものの見方である。神社に立って、森厳たる気に触れ、手水をとり、清々しさや爽やかな気配を感じとったとき、そこになにがしか美的なたたずまいとでもいうべきものが現出しているのをわれわれははっきりと感知する。美的感情を抜きにした日本の文化は存在し得ない。

続いて、「アメリカのジャーナリスト、ジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンの神道理解」を取り上げ、となりのトトロの話をしています(全て引用すると長くなるので略します。読みたい方は買って読んで下さい。ただし、電子書籍しかないかも)。
そして、まとめとして以下のように述べておられます。

◆自然の霊性に通じ合う
このような自然の霊性に通じ合うという感覚は、ネイティブつまり先住民族の文化に共通して見られるものである。それをアニミズムシャーマニズム的な感覚ということもできるが、しかし十九世紀末に起こった宗教進化論の図式が語るようにあ、アニミズムシャーマニズムが低次で未開野蛮な宗教だという意味では全くない。むしろ人間の原初的な感覚、感性、霊性としてアニミズムシャーマニズムがあり、その上に様々な宗教形態、宗教的表現が可能になり、宗教思想、教義、芸術的表現が花開くことになったと考えるべきである。
神道はそうしたアニミズムシャーマニズムが持つ原初的な霊性的感覚を強く保持した民族文化である。

云々と。
鎌田東二さんの言葉と大川隆法の言葉を並べて比較すると、大川隆法の神道理解の底の浅さはハッキリと分かってしまいますね。
鎌田氏曰く、「神道は詩的に理解しなければその神髄はわからない」、また「美的価値、美的感情、美的様式を抜きにした神道というものはあり得ない」とのこと。三つ前の記事で、信者も認める大川隆法の美的センスの無さの話をしたけれど、つまり、美的センスが全く無いの大川隆法に神道の神髄を理解することはできないということでしょう。
大川隆法は、不当に神道を低評価しているのは事実であり、その理由は、大川隆法自身の霊性の貧しさから来る体験の乏しさによるのではないか、と推測されます。霊だの何だの言って、当の教祖様自身が実は何にも体験していないんじゃあ、どうしようもありません。それで何を血迷ったか、天照大神を祟り神のようにしてしまったりしている。そんな出鱈目を信じなければならない信者たちが本当に可哀想です。
現役信者のみなさんへ。富士山は噴火しません。日本人が三千万人も死ぬようなこともありません。天照大神がそのような恐怖の予言をする筈がありません。大川隆法の言っていることは全て出鱈目です。言葉巧みに、恐怖によって支配しようとしているだけです。今の大川隆法は、空野太陽というより、荒井東作に堕してしまっています。顔も、昔のふくよかな面影はどこへやら、すっかりやつれてしまって、死神のようになっているじゃないですか。
さあ、退会の時は今です。