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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

「幸福の科学」の輪廻観は、寧ろバラモン教に近いのではないか

まずは、バラモン教の輪廻観から見ていきます。

仏教以前からインドにあったバラモン教では、「アートマン」と呼ばれるものの実在と永続性を認めている。
 アートマンというのは、個人の本質である「自我」を持つもので、しかも「不滅」だそうだ。そしてこれが、輪廻転生の主体とされている霊魂のルーツと言える。このアートマン=霊魂が現世の行為(業)により、何度もいろんな姿に生まれ変わるというのが輪廻転生の教義で、ヒンドゥー教やチベット密教などに引き継がれ、現在ブームになっているスピリチュアルにもアレンジされているようだ。

と。
仏教の輪廻観は、この輪廻の主体としてのアートマンを否定した筈なんですよね。ところが、「幸福の科学」は、「再誕の仏陀」とか言って、仏教を名乗っていながら、非常にバラモン教的な輪廻観を持っているように見えるのです。
個性ある永遠の実在であるアートマンが輪廻を繰り返し、過去の業に応じて、死後、それぞれの世界やカーストに生まれ変わるというのがバラモン教の輪廻観。
一方、「幸福の科学」でも、その根本経典『正心法語』に

人間は これ 霊にして
霊とは 不滅の 知性なり
霊とは不滅の力なり

という言葉があるように、「霊」を不滅の存在と考えています。バラモン教と同じです。
そして、過去の業に応じて、死後、四次元から九次元までの霊界に還るという点もバラモン教と同じです。

現在の私の考え

シルバーバーチとかの影響もあるのだけど、「幸福の科学」退会者である私は、輪廻転生ということは否定しません。しかし、バラモン教や「幸福の科学」に見られるような、個性を持った魂が延々と生まれ変わっている、というような輪廻観は持ちません。それは、未熟な輪廻観であり、人と人との間に垣根を作り、差別を生み出すものだと思います。死んだ後も個性を持ち、また生まれ変わり、それが永遠に続くという考え方では、自と他は永遠に交わることがありません。そこには「自他一体感」は生まれない、即ち「愛」が生まれません。釈尊が「アートマン」を否定したのも、そういうことなのではないのでしょうか。「幸福の科学」が愛を説きながら、全く愛を体現できていない根本的な理由は、ここにあると私は考えています。

思考実験その1:輪廻転生に「サイクリック宇宙論」を加えて考えてみる

ここでちょっと、信者の方や、未だに「幸福の科学」的な輪廻観が抜けない退会者の方に、一緒に考えてみて欲しいと思います。
「サイクリック宇宙論」というものがあります。要は、宇宙には終わりがあり、終わりまで行くとまた同じ世界が始まる、という考え方です。有名な所では、『ジョジョの奇妙な冒険』第六部でもそういう宇宙観が使われていたりします。
それに加えて、「幸福の科学」的な輪廻観を前提として考えます。
さて、宇宙の寿命が、何百億年か、それ以上か分かりませんが、兎に角、終わりまでは今の個性ある魂のままで過ごします。
二巡目の宇宙では、今度はBという魂として何百億年かを過ごします。それは、例えば自分の父親だとします。
三巡目の宇宙では、今度はCという魂として何百億年かを過ごします。それは、今度は自分の母親だとします。
こうして、四巡目、五巡目、……という風に、魂の数だけ宇宙が繰り返されると考えると、「全部自分である」ということになります。この認識を持つことができれば、完全なる自他一体感を獲得することができます。あらゆる存在は、何巡目かの自分なのです。便宜上「何巡目」と書きましたが、常に同時に存在しているため、どちらが前とかどちらが後とかいうことはありません。なので、誰か一人だけが特別に偉いということもなければ、誰か一人だけが特別に悪者ということもありません。完全なる平等観が得られる筈です。
尤も、これでも私は不十分だと思っていて、個性ある魂が輪廻転生を繰り返すという世界観は、私は信じられません。シルバーバーチが言った「類魂」や、ユングが言った「集合的無意識」という考え方のほうがより正しいのではないかとか、否、寧ろ唯物論的な世界観の方が正しいのではないかとさえ思っています。
まだうまく説明はできないけれど、死後の生命がないというのも違うし、死後の生命があるというのも違うように思います。

終わり

ということで、「私は誰それの生まれ変わり!」とか「私の指導霊は○○!」みたいなことは、「幸福の科学」というカルト宗教以外のスピリチュアリズムでも言われることですが、それらは全く無意味だし、無価値なものです。自と他を分け隔てる害毒でしかありません。大川隆法が「再誕の仏陀」であるという主張は、「万人が再誕の仏陀である」という意味でなら正しいです。
神を信じることにより、他の人を見下して生きるより、神を信じない唯物論者でも、全ての存在を平等だと観じて、どんなものに対しても差別なく接することができる人の方が、神の御心に叶っていると私は思います。