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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

つれづれに思うこと

唯物論とスピリチュアリズム

幸福の科学」信者であった時は、霊的世界があるということが大前提であって、唯物論は絶対的な間違いであり、それを説く人は悪魔に憑かれているのだ、と思っていた。
退会してから思うのは、やはり、そういう考え方は偏狭で狂信的であったと思う。
今は、唯物論とかスピリチュアリズムとか言っても、要は表現方法の違いにしか過ぎないのではないかと思っている。または、物の見方の違い。ものの見方の違いに過ぎないとすれば、結論はきっと同じになる。
そういうことよりももっと根源的なものとして、それぞれの人の心の中の「愛」というものがあるのではないか。唯物論とかスピリチュアリズムとかよりも、その人の心の中の愛の有無、愛の多寡の方が問題であると思う。
例えば、唯物論者であっても、自と他を平等と観じ、誰に対しても分け隔てなく優しく接し、心清く、常識的な線を踏み外すことなく謙虚に生き、後の世の人々のために何か良きものを遺して行くような生き方をすることができる人は、文句の付けようがない。
例えば、スピリチュアリストで、信仰を持っていたとしても、自分だけを特別だと思い込み、口では「愛」を説きつつ内心は他の人を見下しながら、心はいつも不平不満がありつつそれを抑圧していい人であるかのように振舞い、後の世まで毒水を垂れ流していくような生き方をする人は、全く尊敬に値しない。
つまり、その人の言葉や思想よりも、人格とか人柄の方が重要だと思う、ということである。

子曰く、「其の以す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋さんや、人焉んぞ廋さんや」(『論語』為政第二)

宗教の目的は、人々を幸福に導くことであって、神への信仰や霊的世界を説くのはその手段に過ぎない。手段である筈の信仰や天国・地獄といったものが目的化してしまい、形而上のことであるのに絶対の真理であるかのように思い込んでしまい、更にそれを他者にも押し付けてしまう所に、宗教を起因とする様々な弊害の起こる原因があると思う。
人格の陶冶のできない宗教には価値が無い。「幸福の科学」でも、かつては「偉大なる常識人を創る」と言っていた(このキャッチコピーも関谷さんが考えたものだったそうだが)。
で、改めて、人格向上のために霊的世界観は必要かと考えてみると、私にはそうは思えない。逆に、偏狭な価値観に執われてしまい、唯物論等のその他の人々の考えるの多様な世界観ということを受け入れることができなくなるという点で、不要なものだと思う。
尤も、これは個人的な感覚を基準にしたものである。別に差別するわけではないのだが、(近代以前の人々のように)「天国・地獄というものがなければ正しく生きられない」という人には、そういうものが必要なのだろう。それは表現方法の違いであって、それはそれでいい。私自身、現在でも「神」という存在を想定しなくては、生きていくことさえできない(私が生きていくために神の存在を必要としているだけである)。しかし、それが万人に当て嵌る絶対的真理と思うようになると、そこに心の狭さや傲慢さが発生し、争いの元となるのだと思う。
私は唯物論者を差別しないし、スピリチュアリストも差別しません。統合失調症患者も差別しません。
所謂「霊的な人」というのは、感じ方や表現方法が「霊的」なだけで、言っていることはまともな場合もあります。

愛について

最も高尚な言葉であり、最も陳腐な言葉でもある。
誰もが持っている最も身近な存在でありながら、幾ら求めても思うように手に入らない存在でもある。

生と死

一ヶ月と少し前ぐらい、職場のある建物の軒下に、つがいのツバメが巣作りをしていた。それから暫くして、無事に雛が孵った。雛は全部で五匹いて、それから二週間ほど、親鳥は熱心に餌を雛の元に届けていた。最後の頃には、親鳥と変わらない大きさになった雛が、巣から溢れかけていた。その姿は、とても可愛らしいものだった。先週のある日、みんな居なくなっていたので、無事に巣立って行ったようだった。
子供のために熱心に餌をかき集めて飛び回る親鳥の姿を見て、何だか非常に感動した。ツバメのような野生の動物でさえ、子供のために自己を犠牲にして生きている。
一方、現代の日本社会を見渡してみると、大人になっても自己中心的に生きている人の多いこと多いこと。私には、個人主義という名の思想的毒が日本国中を覆っているように見える。
人間は、一人で生きているのではない。親から子へと連綿と続いてきて、これからも続いていくものである。人間は社会的存在であり、歴史的存在である。そのことを忘れて、自己中心的にだけ生きることは、人類全体から見て悪である。
死を意識しない生は、生きていても死んでいるのと変わらない。現代日本には、人間の皮を被った生けるゾンビが沢山居る。
未来の人類のために生きるというのは人間としての当然の義務であると思う。子供がいない場合でもそうだし、子供がいる人ならば、尚更、立派な大人に育てるために、自分のことは考えず、子育てに全力を注ぐべきである。そのことを考えず、個人主義的な思想を基に自己中心的にのみ生きることは、ツバメにも劣る態度であり、畜生以下の存在である。
大人が主役になってはいけない。主役は常に次世代を担う子供たちでなければならない。某宗教政党が主張しているような「生涯現役」などというのは、とんでもない勘違いである。
私も、今後の人類のため、何かしら良きことを遺し、伝えていきたいと思う。人生経験は限られており、できることも限られている。私がいま主に考えているのは、人間が二度と大川隆法のような口先三寸で人を騙す宗教詐欺師や「幸福の科学」のような詐欺カルト宗教に引っ掛からないようにするには、ということである。