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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

矢作直樹・村上和雄著『神(サムシング・グレート)と見えない世界』(祥伝社新書)読了

対談本で、中身は薄かったけれど、矢作先生の考えは大体分かった。もっと読んでみたいと思った。村上和雄はちょっとズレているというか、こちらはもう読みたくない感じだった。理由は後述します。

矢作直樹先生の発言部分より

まず、矢作先生の発言から幾つか抜粋してご紹介します。

「全ての宗教は同根である」(第一章より)

西洋では長らく「精神と物質はまったく別な存在」と位置づけられてきました。
(中略)
いっぽう、東洋には「万物一体的世界観」がすでに存在していました。
(中略)
私自身、全ての宗教は同根であると理解しています。
山に登る際、色々なルートでの登り方がありますが、宗教はまさにそれと同じだと思います。頂上、つまり根源的な存在である「摂理」はたったひとつだけれど、そこに至る方法、これが色々なルートの登山道であり、要するにさまざまな宗教・宗派を指すのですが、方法論が違うというそれだけの話です。

ふむ。

東日本大震災で感じた「神意」(第一章より)

東日本大震災では、日本中が「神意」を感じたと思います。天変地異は科学万能主義を御旗に突っ走ってきた人間界が、地球に対してこれだけの非礼を働いているのだというメッセージだと思います。
政治的な配慮とはいえ、原子力発電所を全国の海辺に造った歴史はその最たるものでしょう。今回の福島第一原子力発電所事故であきらかになった構造上、あるいは危機管理上の問題点を解決しないまま、政府は一部の原発を再稼働させましたが、こういうことをいつまでも続けていると、ますます文明が退化すると思います。

矢作先生の言う「神意」とは、要は反原発です。エル・カンターレは原発推進です。

「上から目線」に対する違和感(第一章より)

瞑想の世界で有名な人がいらっしゃるのですが、その人の本を読んでいて違和感を覚えました。その人に就いて修行すれば、効率良くというか早くその境地になれる、神とつながる可能性がある、という言い方をしているのです。
今のままのあなたではいけない、神とつながらないといけないといった高みに立つような物言いとまでは言いませんが、そういう目線や感覚が私には強い感覚として残りました。

その「違和感」に私は共感できます。つまり、大川隆法や「幸福の科学」信者の上から目線の態度に対する違和感と同じものでしょう。被差別意識や被害者意識の強い人特有の、「自分たちだけは特別」みたいに思いたがる傾向性から発する独特の臭気であろうと思われます。

パワースポットについて(第一章)

空気が清々しく感じられる場所というのは、だいたい樹木が高く育っています。そういう場所は、聖地とまではいかないにしても、何らかの理由で、場のエネルギーが高いと考えていいでしょう。
私自身の経験ですが、聖地では表現しがたい経験をすることがあります。物質的なレベルではなく、実に精妙なレベルなのですが、手をはじめとして痺れるような感覚です。痺れるというと、正確な表現ではないのですが、まるで手の表面がビーッと細かく痺れるような感じです。
森林浴が気持ちいいのは、木々から体に良いとされているフィトンチッド(殺菌力を持つ揮発性物質)が出ているからと言われます。二〇〇六年に行われた日本医科大学の研究データでは、二泊三日の森林浴で、がん細胞を攻撃できるNK細胞(ナチュラル・キラー細胞)の活性力が約五六%向上すると同時に、抗がんタンパク質濃度も上昇したと報告されました。
出雲大社(島根県)もパワーの強い場所でしょうし、三輪山大神神社(奈良県)もそうでしょう。吉野山(奈良県)、三峯神社(埼玉県)、みんな聖地だと思います。
聖地と言われる、あるいはパワースポットと呼ばれる場所は、昔から神社仏閣が多いのですが、これもさきほどの理由が関係します。つまり、エネルギーの強い場所をエネルギーの強い人が見つけて建てられているということです。

云々と。こうやって、「パワースポット」というスピリチュアルなことを、科学的(医学的)な研究データで裏付けて話をされる辺りが面白い。それが江本勝みたいな「疑似科学」だったら困るけど、矢作先生は、そういうトンデモなデータは持ちださないようである。

霊魂について(第二章)

私が二〇一一年に『人は死なない』を出版した理由は、すべての人に幸せになってほしいから、そのために「真理」を知ってほしい、というのが一番の動機でした。
霊魂・霊・魂はさまざまに用いられ混乱があるので、ここでは霊魂が今世で肉体をまとっている状態を「魂」、シルバーコード(魂の緒)が切れて肉体を離れたものを「霊」と呼ぶことにします。また、今世での肉体に対して見えない「からだ」を霊的(慣習的に定着している言葉)な体という意味で「霊体」とします。したがって、霊魂と霊体とは同義と思ってください。
人間は、霊魂は永遠という事実を理解してはじめて、自分がこの世界で生きることの意味が、おぼろげながらわかるのだと私は思います。
そうでなければ、仮にこの人生ですべてがおしまいということなら、多くの現象の意味が理解できません。でも、霊魂が永遠であるという大前提が存在するとわかれば、毎日の生活でつらい思いをしている人、亡くなった人への喪失感に苛まれている人を含めて、多くの人が救われると思います。

この辺などは、「幸福の科学」信者も首肯する内容かと思われます。

魂を存在しないとするのは非科学的な姿勢(第二章)

自分とは魂のことです。魂を教えない、魂を無視するから、日本は戦後の教育でおかしくなりました。世界中のどの民族にも、昔から魂という言葉が存在します。スピリットと言い換える民族もあります。ソウルとも言われます。
魂は普遍的なものです。でも、現在の科学は魂を客観分析・理解するのが難しいことから、そこにはあえて触れないでおこうという姿勢です。
しかしながら、わからないから触れないことで、「存在しない」ことにはなりません。それこそ非科学的で消極的な姿勢です。

この辺も、「幸福の科学」信者一同は大喜びしそうな内容です。

輪廻転生について(第四章)

霊心体、あるいは「向こう側の世界」の存在が視野に入ると、この世における我欲、金銭欲、出世欲、名誉欲、性欲、最近では延命欲などまでありますが、こうした際限のない欲望を持つ必要が失せてくるのではないでしょうか。
欲を捨てると、人生が知足(足るを知る)に包まれるように思います。
あの世の存在、霊魂の存在は、すべての人間の幸せにとって根源的重要事項です。本当は、学校教育など公の場でその事実を知ってもらう必要があります。
(中略)
「輪廻転生の考え方では、霊魂の数が際限なく増えていくのでは?」という質問をたまに受けます。そこで簡単にその仕組みについて述べましょう。
この世界は、三次元であるこの世に、幾重にもわたる高次元の世界(あの世)が重なり、最終的にはひとつの普遍意識(大霊)になると言われています。
高次元の世界の意識(霊魂)は、もうこの世に転生してくることはないと言われています。いっぽう、この世に転生してくる霊魂は、比較的この世に近い(低い)次元の霊魂は個別化が保たれており、次元が高くなるにしたがって集合する傾向があります。
これら霊魂は、イメージとして雲のように、もともと普遍意識としてつながっていたものが、高次元では自由に離合集散できますから、この世に出てくる霊魂の数の増減は問題ないのです。
霊魂は、高い次元に行けば行くほど大きくなりえます。この世は、さまざまな次元から転生した魂を持つ人々の集まりです。ちなみに、イエス・キリストのような神性の高い魂は、かなり高い次元から無理して現世に転生している存在と言われています。

うーん、「知足」の部分は同意なのだが、アンチKKとしては、霊界を次元構造で説明されるのには同意できない。生まれながらにして魂のレベルに高低があるのだ、という風な考えにも賛同できない。どうも、高橋信次的な、同一の魂が延々と「業」を持って輪廻を繰り返すというような「転生輪廻」観に惑わされている感じがする。
ただ、低レベルなほど個性がハッキリしていて、高レベルなほど集合する、という説明は同意。「幸福の科学」では、動物や昆虫など低レベルなほど集合霊であって、高級霊ほど個性がハッキリしている、という風に逆の説明をしている。天と地が逆さまになっている。

スピリチュアルブームに関する注意喚起(第五章)

スピリチュアルブームには、注意が必要です。書籍や講演イベントでは「私の言うことさえ聞いていれば救われる」「これをやらないと上のステージには行けない」などと独善的なものも多く、それは恐怖心を煽って信者を獲得しようとする悪徳宗教団体と同じ構造です。人々を自分に依存させること、お金を儲けることが本当の目的です。
こういう人や団体が存在するために、スピリチュアルという世界にいかがわしさを感じる人が多いのもしかたありません。
しかし、いかがわしさを感じるという感性は大事です。なぜなら、無批判にハマると邪教に捕捉される可能性があるからです。勘、直感から来るバランス感覚が重要なのです。
時代が変わろうとしている現在、各々がそれらに依存することなく、神について、霊魂について、命についてじっくりと考えてみるべきではないでしょうか。

この部分も同意。「幸福の科学」信者はよく読んだ方がいい。教祖や教団に依存させるような宗教は、全て人を狂わせていくものである。

村上和雄について

この人は、どちらかと言うと「幸福の科学」に近いと思いました。宗教団体に批判的である点は違うけれど、スピリチュアリスト特有の独善的というか、思い込みの激しい面が見られました。
何か「幸福の科学」と親和性があるよね、と思ってググってみたら、ueyonabaruさんの

こんなレポートがありました。案の定、肯定的に紹介しています。

* 村上和雄氏は、熱心な天理教の信者の家に生まれ育ったようです。父親は、自分が天理教で徳を多く積んできたので、その善果はすべてお前のものだと話されていたそうです。

押しつけがましい親ですね。自分で自分のことを「徳を積んだ」と言うような人間に、徳があるとは思われません。この親にしてこの子ありなのでしょう。
ここに気持ち悪さを感じず、逆に「素晴らしい」と思ってしまうような人は、詐欺的カルト宗教の「巧言令色」に騙されてしまうタイプかと思います。

天理教について

幸福の科学」では、天理教は邪教ではなくて天国的な宗教とされています(ただし、「幸福の科学」よりは遙かにレベルは落ちるとされている)。
でも、私が見聞きした所では、天理教もカルトと呼ぶに相応しい被害が出ていたりします。

この辺などを参照。私の知り合いの方でも、元天理教の二世信者であって、おかしな教理を押し付けられて苦しんだという方がいます。
信仰者は自分の信仰が正しいと思い込むあまり、他者を否定し、独善的になる傾向があるんですよね。老子親鸞聖人の教えはその反対を教えるものです。
「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」って、つくづく、いい歌だと思います。

追記:やはり何か違う気がする

うーん。一晩寝て思ったのだが、「魂の不死を信じなければ幸せにはなれない」というのが「現場感」なのか。何だか違う気がする……。
引用はしなかったが、矢作・村上両氏ともに「自殺はいけない」ということを言っていた。そこも違和感だった。
私は、寧ろ「死を意識してこそ初めて有意義な生を生きることができる」というような考え方に賛同する。
肉体の生命が終わると同時に、現在の意識や個性は無くなってしまう、という諦観が無ければ、そこに生じるのは「死ぬまで自己中心的に生きる生」ではないか。
尤も、矢作氏は「普遍意識とつながる」ということも言っており、それが前提である世界観なのだろうから、「幸福の科学」的な個人主義的転生輪廻観とは一線を画しているとは思う。
でも、それはつまり、人間は社会の一細胞であり、自己中心的のみに生きるのではなく、社会全体に奉仕するべきものである、という意味と同じなのではないか。それなら、霊魂の不死を信じることが大事なのではなく、「普遍意識とつながる」ということが重要なのではないか。というか、わざわざ「普遍意識とつながる」などとスピリチュアルな表現をする必要があるのか。
ということで今のところの結論は、矢作・村上両氏とも、少しズレている、と思う。これも、私自身の脱洗脳過程の一環である。
「人は死なない」というのが矢作氏の訴えたいことのようだが、この間の『一枚のハガキ』の新藤兼人監督は、「生きている限り、生き抜きたい」と言っていた。私は新藤監督の言葉の方が味わい深く感じる。

追記2

知足ということと霊魂の不死を信じるということを関連付けていることもおかしい。私は霊魂の不死を唱えていながら足ることを知らない集団(「幸福の科学」のことです)を知っているので。
この記事を書いた当初は矢作氏を肯定的に紹介しようとしていたのだけど、今は違う。なので、書き直したい気分であるけれども、まあ、残しておきます。