幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

中谷宇吉郎先生の正字正かな論

以前に圖書館で借りて入力したものがあつたのを思ひ出したので、著作權切れ記念で公開します。

こちらからどうぞ。
長いので、要點を一部拔粹すると、

今になつて考へてみると、私の新假名づかひに對する嫌惡の情は、それが國會で、法律か或はそれに類似のもので決められたといふ點に起因してゐるらしい。法律でなくて勸告かもしれないが、終戰後のどさくさに乘じ、まだ統制權力華やかなりし時代に、國民の代表、即ち主權の代表たる國會から、「勸告」によつてかういふことが決められたのならなほ惡質である。それが氣にくはないのである。

といふことです。かういふ事實すら知らない自稱「保守」の多いこと多いこと。
「保守」を名乘り「憲法無效論」などを唱へてゐながら正字正かなを實踐しないのは、「なんちやつて保守」です。實踐なき思想には説得力がありません。
さういふ意味では、世間に媚びずに正かなを貫いてゐる「維新政黨新風」は立派だと思ふし、谷口雅春なども、憲法無效論を唱へつつ、自ら正かなの實踐もされてゐたので立派でした。
最近でも、南出喜久治氏などは、「憲法無效論」を唱へつつ、ウェブサイトも正字正かなで書かれてゐて、言行一致で頑張つてをられます。
大川隆法は言ふに及ばず、石原慎太郎渡部昇一櫻井よしこ、田母神某等、この邊はみな似非保守です。

「灯をともすもの」を新しく作ることが大切であると同時に、現在ある同種のものも大事にしなければならない。「漢字を制限したり、へんな假名づかひを強制したりして、古典を讀めないやうに皆をしてしまつたら」といふのは、少し輕卒な言葉であつたが、座談會の御馳走の席での失言と、御容赦を願ひたい。古典といふのは、實は少し滑稽な話であるが、鷗外漱石のあたりを指してゐたのである。これには私の體驗がある。大學を出て少しものごころがついた頃、鷗外の『即興詩人』を讀み直してみて、ひどく興奮したことがある。ローマ郊外の荒れ地のあたりの描寫を讀んでゐるうちに、すつかり醉つてしまつた。ところがそのうちに氣がついたことは、その醉心地が、今までの他の作家の名作を讀んだ時の感激とは、少しちがふことである。これはどうしても葡萄酒の醉心地であつて、灘の銘酒の醉心地とはちがふ。文章といふものは不思議なものであると、つくづく思つた。それで『即興詩人』を、その後もいろいろな若い連中にすすめてみるが、たいていの人はさう面白いとは思はないといふ。大學へ行つてゐるうちの娘なんか、英文學をやつてゐるくせに、「さうねえ」ぐらゐで輕く片付けてゐる。一寸淋しい気もする。かういふ傾向は、今度の漢字の制限と、新假名づかひの半強制とで、ますます拍車をかけられるであらう。新假名づかひだけでなく、漢字の制限と相まつて、その威力が發揮されるのである。もちろん、舊假名をつかつてをれば、古典が讀めるといふのではない。私の議論は、「ビフテキを喰ふには、ナイフがある方が便利だ」といふだけである。「ナイフがあつても、ビフテキが無ければ喰へないぢやないか」といふ話とは、別の問題である。又ナイフがなくても齧ればよいわけであるが、やつぱりあつた方が便利である。
もつとも新假名づかひによつて、何か非常に有利なことがあれば、話は別である。しかし今までの私の知識では、さうたいしたことはなささうである。新假名づかひだつて、やはりおぼえねばならないもので、少しは簡單かもしれないが、それによつて少し敎育の能率が上つても、たいしたことはない。又少しくらゐ能率が上つても、どうにもなる世界情勢ではない。それよりも、最惡の事態に立ち到つても、なほ日本人が互に心のつらなりをもつやうに努めた方が、もつと大切であらう。それにはイプシロンでもプラスになるものは、なるべく大事にしておいた方がよいと、私は思つてゐるだけである。

單なる科學者とは思はれない、かういふ文學的表現なども中谷先生の魅力の一つであると思ひます。「イプシロンでもプラスになる」といつた表現も、中谷先生ならではの素敵な表現ですね。
全文は上記リンク先からどうぞ。