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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

矢作直樹・一条真也著『命には続きがある』感想文

ちょうど前回、矢作直樹氏のことを初めて知った頃(神や霊を認めるお医者さん・矢作直樹さん - 幸福の観測所参照)、鎌田東二さんの日記(のようなもの)でこの本が紹介されているのを観ました。

こちらの「第96信」です。一条真也さんと鎌田東二さんの往復書簡という形式で書かれているものの中で、紹介されていました。
パラパラと読んでみて思ったのは、「幸福の科学」とは大差無いレベルだということ。霊的なことは、ほぼ無批判で受け入れており、UFOなども信じている様子。

当然、霊には良いものばかりではありません。悪い霊もあります。とくにこの世は修行の場ですから。神はこの世に生きる人間に善がわかるように見かけ上、善悪二項対立のかたちで世界を創られました。心がけが悪ければ悪い霊に憑かれるでしょう。たとえばヒトラー、スターリン毛沢東など、平気で大量に人を殺した人間には、悪霊が憑いていたようです。
憑依などの霊障は、頭に入れておく必要がありますね。霊障とは霊的障害のことです。霊によって引き起こされるもので、極端な例では、強力なエネルギー・ヒーラーの隈本確さん(日本神霊学研究会)のように、けがをしたこと、病気になったこと、仕事がうまくいかないことなど、みな霊障だという人もいます。

これを読んで、もうあかんと思いました。「悪霊」なんていうのが実在すると思っているようです。
鎌田東二作の道歌で、「魔も仏も われよりほかに なかりけり」というのがあります。「霊障」なるものがあるとしても、全てその人の心の中の出来事に過ぎません。
他にも、臨死体験に絡めて幽体離脱の話などもしていました。しかし、私も過去に

こちらの記事で紹介したように、幽体離脱して見た映像と実際の現場とを検証したところ、全く違っていたという報告がありました。要は、幽体離脱というのも、その人の心が創り出した幻影に過ぎません。
1956年生まれには、大川隆法といい種村修といい高橋佳子といい、本当に、碌なのが居ないようです。戦後の宗教否定・唯物論全盛の反動なのでしょうか。スピリチュアルなことを無批判に受け入れ過ぎで、極めてレベルの低いスピリチュアリズムになっています。
矢作氏の本は、もう、二度と読まないでしょう。

一条真也著『愛する人を亡くした人へ』

こちらも同じく届きましたので、パラパラと読んでみましたが、同じくレベルが低くてどうしようもありません。
「死後の世界に時間はない」と言い、

この段階では時間が存在しないために、二十歳のときに子どもを亡くした人が九十九歳で亡くなっても、亡くしたときと同じ年齢のまま子どもに会うことができるのです。ロスの研究では、あの世の一分はこの世の時間の百年にも相当するようです。

とか、訳の分からないことを述べています。日本語としても下手糞で、「二十歳のときに子供を亡くした人が九十九歳で亡くなっても」という表現も分かり辛いし、「亡くしたときと同じ年齢のまま」が自分自身を指しているのか、子どもを指しているのか、それとも両方を指しているのかが分かり辛いです。「二十歳のときに子どもを亡くした」ということは、子供は乳飲み子程度でしょう。
だいたい、「あの世では時間がない」というのは、「記憶の中で生き続ける」ということと何ら大差はありません。「霊界には時間がない」というのは、「霊界というのは、所詮、生きている人間の作り出した幻影に過ぎない」というのと同じ意味です。
この人は1963年生まれですが、これらの人々は、「唯物論」に反対する余り、それ以前の「迷信」の世界に回帰していくような感じが見受けられます。
不可知なものを不可知なままにしておくことができないのは、頭の良い人の病なのではないかと思います。
一条氏は、儒教についても度々言及しているようだけれども、

子曰く、「由よ、汝に之を知ることを誨えんか。これを知るを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」と。(為政第二)

という言葉もご存知の筈です。形而上のものについて、このようにしたり顔で語ることは、孔子の教えに反しています。

「過去世の縁」について

また、一条氏は、「ソウルメイト」という、スピリチュアリズムの側からも批判されている(スピリチュアリズムから見た前世探しブームの問題点参照)疑似科学を取り上げて、このように述べています。

愛する人にキスした瞬間、それは何百年前の前世の恋人とのキスであり、二人は時間を超越して、ずっと一緒だということを思い出すこともあるのです。

こんなことを大真面目に書いてしまっているところが非常に痛々しいです。これは、思い込みにより心の内側に創造される勝手な「思い出」です。「運命の赤い糸」とかいうのは、全て、当人たちによる思い込みに過ぎません。うまくいかなくなる場合が多数ですが、中にはうまくいく場合もあるようです。「ビビビ婚」の果てに破綻するのは、松田聖子をはじめ、よくある話です。大川隆法大川きょう子もそうです。渦中にある本人は絶対に気付かないし否定するけれど、「過去世の縁」とか思い込むのは、非常に滑稽な姿です。私も自分自身の体験から、それはつくづく実感します。
倉田百三著『出家とその弟子』の中の唯円の台詞として、このようなものがあります。

私はこのごろいつも考えているのです。けれどどのような男女の関係がいちばんほんとうなのかわからなくなるのです。あるいは野合のようなのが実はいちばん真実なのではないかと思われることもあります。

私も、唯円(にこの台詞を言わせた倉田百三)の言わんとする所はよく分かります。非常に共感します。
その場その場で、縁あって出会った人々との間の絆を大切にして生きていくということです。仏教の「執着するな」という教えにも通じるものです。いつまでも、亡くなった人や、過去の失われた愛に執われていたら、やはりそこには不幸しかありません。かと言って、不倫礼讃というわけでもありません。縁あって結ばれた間柄であれば、その関係を維持する努力はすべきです。
エーリッヒ・フロムも、似たようなことを述べていたかと思います。うろ覚えですが、離婚はいけないことであるが、絶対にいけないことというわけでもなく、場合によっては許される場合もある、というようなことを述べておられたと記憶しています。
更に、『出家とその弟子』の別の箇所ではこのような下りもあります。

唯円 この恋のかなわぬことがありましょうか。この私のまごころが。いえいえ、私はそのようなことは考えられませぬ。あめつちがくずれても二人の恋はかわるまいと、私たちは、いくたび、かたく誓ったことでしょう。
親鸞 幾千代かけてかわるまいとな。あすをも知らぬ身をもって!(熱誠こめて)人間は誓うことはできないのだよ。(庭をさして)この満開の桜の花が、夜わのあらしに散らない事をだれが保証することができよう? また仏さまのみゆるしなくば、一ひらの花びらも地に落ちることはないのだ。三界の中に、かつ起こり、かつ滅びる一切の出来事はみな仏様の知ろしめしたもうのだ。恋でもそのとおりじゃ。多くの男女の恋のうちで、ただゆるされた恋のみが成就するのじゃ。そのほかの人々はみな失恋の苦いさかずきをのむのじゃ。

この親鸞の「人間は誓うことができない」という言葉も身に染みてよく分かります。「何百年前の前世の恋人」などと思い込むのは当人たちの勝手ですが、それは人間の主観による勝手な思い込みであり、真実ではありません。
一条真也氏の本も、二度と手に取ることはないでしょう。鎌田東二氏については、また読んでみるつもりです。

まとめ:オカルトには百害あって一利なし

この度、スピリチュアル系の本を読んで、非常に反撥を覚えたことにより、逆に今の自分の立ち位置が分かってきました。神への信仰と、オカルトへの傾倒は別の話です。寧ろ、神を正しく信じる人は、不可知なものについては不可知なままにしておくことができ、殊更にオカルト的な興味を持つことがないようにも思います。

「鬼神は敬して之を遠ざく、知と謂ふべし」(雍也第六)

これが金言です。
オカルトには百害あって一利なしであり、何かを学んでも、自分で考えても、時間ばかりが取られてしまいます。全てが主観の世界なので、確かなものは何一つなく、必ず間違った方向へと進んでいきます。
それよりも、人格を磨いたり、「偉大なる常識人」(by 関谷晧元)として正しく生きることを目指す方向に時間を割いた方が有意義な生を送れるのではないかと思います。