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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

平凡性の自覚

みろたんさんとこの記事を読んで思いました。
以前、

こちらの記事でも書いたのですが、大川隆法が「平凡性の自覚が大事だ」と言って、『平凡からの出発』と言ったことは正しいことでした。しかし、「非凡なる愛の高みへ」と言ったことが、転落の出発点だったと思います。「非凡なる愛の高みへ」と言ったとき、既に平凡性の自覚は失われています。
西田幾多郎先生の書かれた『愚禿親鸞』という文章から引用します。

人間には智者もあり、愚者もあり、徳者もあり、不徳者もある。しかしいかに大なるとも人間の智は人間の智であり、人間の徳は人間の徳である。三角形の辺はいかに長くとも総べての角の和が二直角に等しというには何の変りもなかろう。ただ翻身一回、此の智、此の徳を捨てた所に、新な智を得、新な徳を具え、新な生命に入ることができるのである。これが宗教の真髄である。

大川隆法や、大川隆法を人間ではなく絶対神として崇めている「幸福の科学」信者には、この「宗教の真髄」が絶対に分からないでしょう。
大川隆法が本当に救われるためには、今一度、「平凡性の自覚」という原点に還る必要があります。しかし、それを最も妨げているのが信者一同の「信仰心」だったりします。教祖は信者を苦しめ、信者は教祖を苦しめている。私には、お互いに首を絞め合ってエクスタシーを感じているような、そんな狂気を感じます。
「もう頑張らなくてもいいんだよ」とか「私は『エル・カンターレ』や『再誕の仏陀』ではなく、中川隆という人間を愛しているよ」などと言ってくれる人はいないでしょうか。
今も昔も、大川隆法(中川隆)に最も必要なことは、本当の意味で、人間として愛されることなのではないかと思います。必要なのは「与える愛」ではなく、誰かにとことん愛されることだったのではないかと。そこを勘違いしてしまったために、「大川隆法」という名のモンスターを生んでしまったのではないか、と思っています。