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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

リチャード・ドーキンス著『神は妄想である』を読書中

レビュー

以前、楽山日記さんで紹介されていたので読んでみようと思いました。初めは買おうと思ったのだけど、意外と高かったので、とりあえず図書館で借りて読んでいます。現在は、第二章の途中ぐらい。幾つか参考になった部分を書いていきます。

ドーキンスの言う「妄想」の意味

マイクロソフト・ワードに付いている辞書は、delusionを「矛盾する強力な証拠があるにもかかわらず誤った信念をずっともちつづけること。とくに精神障害の一症候として」と定義している。この定義の前半は、宗教的な信念というものの性質を完璧に捉えている。それが精神障害の症候であるかどうかについては、『禅とオートバイ修理技術』の著者であるロバート・M・パーシグが、「ある一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」と述べているが、私はこちらを採りたい気持ちがする。(p.16)

「ある一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」という言葉は鋭いと思います。例えば、大川隆法一人が「我は神々の主である!再誕の仏陀である!エル・カンターレである!」と言っているだけなら、精神異常者で済んだのに、多くの人がその妄想に取り憑かれてしまったため、「宗教」となってしまっているということですね。
もちろん、ドーキンスはキリスト教やその他の伝統宗教も含めたあらゆる宗教について批判しているわけで、カルトに限ったことではありませんが、カルト宗教の場合だとそれがよりハッキリと分かります。

ドーキンスの言う「神」の意味

ここは誤解されがちな所なのですが、所謂「汎神論」を無神論と言っているようです。
第一章では、アインシュタインやホーキングの発言の例を引いて、彼らも「神」と言う言葉を使っているけれど、内容的には(ドーキンスの言う)無神論者であるということを述べています。

用語法について念を押しておこう。有神論者(theist)は、そもそもこの宇宙を創造するという主要な仕事に加えて、自分の最初の創造物のその後の運命をいまだに監視し、影響を及ぼしているような超自然的知性の存在を信じている。多くの有神論的な信仰体系においては、神は人間界の事柄に密接にかかわっている。神は祈りに応える。罪を赦し、あるいは罰する。奇跡をおこなうことで世界に干渉する。
(中略)
理神論者(deist)も超自然的な知性を信じているが、その活動は、そもそも最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定される。理神論者の神はそれ以後のことに一切干渉せず、人間界の事柄に特別な関心をもっていないのも確かだ。
汎神論者(pantheist)は、超自然的な神をまったく信じないが、神という単語を、超自然的なものではない〈自然〉、あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う。
理神論者は、彼らの神が祈りに応えず、罪や懺悔に関心をもたず、私たちの考えを読みとったりせず、気まぐれな奇跡によって干渉したりしないという点で有神論者と異なる。
理神論者は、彼らの神が、汎神論者の神のように宇宙の法則の比喩的あるいは詩的な同義語ではなく、ある種の宇宙的な知性である点で汎神論者と異なる。
汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論なのである。
「神は老獪なれど、悪意はない」や「神はサイコロを振らない」や「宇宙を創造するとき神に選択肢があったのか?」といった有名なアインシュタイン語録は、どう考えても、理神論ではなく汎神論的であり、まちがっても有神論ではない。

キリスト教もイスラム教も仏教も神道も、現代日本の新興宗教も、宗教はみな有神論ということになるかと思います。
私もつい最近までは有神論者でしたが、理神論から汎神論の方にシフトしてきました。
人を傷つけるのも人であれば、人を愛するのも人です。人を罰するのも人だし、人を救うのも人です。「天罰」というのはあり得ません。あるとしたら、それこそ思い込みの妄想に過ぎません。
神様は人を罰したりしない代わりに、人を助けたりもしません。人を助けるのは人です。
幾ら祈っても、問題は解決しません。私は、「幸福の科学」信者であった時代も、信者をやめてからも、事ある毎に神様に祈ってきました。自分自身のことを祈ったこともあれば、他人様のことを祈ったこともあります。しかし、過去二十年間を振り返ってみるに、祈りに対して明確な応えがあったことは皆無でした。「エル・カンターレ」に祈っても、その辺の神社の神様に祈っても、何も変わりません。自己満足に浸るか、プラシーボ効果以上のものは期待できないものです。
信仰者が得てして冷たい振る舞いをするのは、「神様が全ての人を見守ってくれていて、困った人を助けてくれる」と思い込んでいるから、人が人に対して救いの手を差し伸べなくてもいいと考えてしまうからではないかと思います。
信仰を持つことで他人に対して冷たい人間になるぐらいなら、信仰を捨てて他人に対して優しい人間になる方を選びたいです。
進化論を学ぶ過程で、どうやら「霊魂」というものも妄想の産物に過ぎないことが分かってきました。輪廻というのや天国・地獄や霊界というのはあり得ないとほぼ確信しています。それらも全て古代人の考えた妄想に過ぎないです。
しかし、私はまだ、運命というようなものは信じています。個人の認識を越えた力や導きのようなものは実感としてあります。脳というのは、物理的には個人の頭の中で完結しているものだけれど、やはり、他の個体とも何らかの形で繫がっているものだと思っています。テレパシーや共時性といったものは否定できないもののように感じます。人間は個人で断絶しているものではなく、社会という有機体の細胞の一つと考えています。
ただし、「超自然的な力」とかいうものは無いのだと、これもほぼ確信しています。あるとすれば、脳や人体の中の、まだ解明されていない(または単に私が知らないだけの)働きがあるというだけのことです。
その他、私には勉強しなければならないことが沢山あります。

こちらのサイトは引き続き読んでいます。やはり、スピリチュアリズムと唯物論は融合できるのだという思いを強くしています。