幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

「無神論」という選択肢

スピリチュアリズムと唯物論の架け橋となる脳科学

 「夢のお告げ」という言葉があるが、目覚めている時に思いつかなかったインスピレーションや課題解決のヒントを夢から得られることが確かにあるようだ。
 有名な例は、ベンゼン分子が亀の甲羅のような円環構造をしていることを夢で考え付いた化学者ケクレの経験だろう。芸術の世界にも同様の逸話は多く、ベートーベンやポール・マッカートニービリー・ジョエルは、目覚めた時に新しい楽曲が湧いて出たという。


■レム睡眠時に常識の枠が外れる


 なぜ夢でこのようなことが可能なのか。夢を使った能力開発や課題の解決はどこまでできるのか。ここ10年ほど、脳科学の研究成果をもとにそうした研究が進展している。
(中略)
 対照的に、意思を伴う行動や、論理的・社会的に適切かどうかの判断に関係した領域(前頭前野背外側部)はあまり活動しない。このひとつの解釈は、思考を論理的で既知の事柄に制限している「思考の抑制作用」が弱まり、常識にとらわれない思考をすることで、独創的な発想や、問題解決が導かれるというものだ。

以下ソース参照。こういうニュースはいい。
幸福の科学」では、「夢を視ている間は人間は霊界に行っているのだ」という説明をしていた。「夢の中のインスピレーションというのは、指導霊からビジョンを見せられたりしているのだ」という説明もあった。
ところが、そのような根拠のない妄想に基づいた説明をしなくとも、上のニュース記事のように、唯物論的に明快に説明できてしまうのである。
唯物論は、スピリチュアルなことを全否定しているわけではない。

「神」というものについて

単に「下手の考え」かも知れないけれども、「神」という存在について、引き続き考えている。
人々が「神」と呼ぶものの正体は、やはり、集合的無意識と言ったものに近いものだと思う。個人に於いて、無意識というものは否定できない。誰しも、意識の奥の方に、普段は意識できない部分を持っている。
そして、人の脳はその人だけで完結しているように見えても、他人と共通しているものがある。言語にしてもそうだし、社会のルールや伝統といったものもそうである。無意識下においても、そうやって他の人と共通しているものがある。それは、動物的本能とか個人の意志とかを超えて働くこともある。そこには、今まで人類が築いてきた叡智が詰まっている部分もあるのではないか。それを人格化して「神」と呼んでいるのではないか。(その意味で、代々の先祖を「神」と考えたりするのは自然なことだと思う。さらに遠い先祖である爬虫類を「神」とするのもそう不自然なことではない。)
想像だけれど、そんなことを考えている。「神」というものは、実体を持ったものではないけれど、やはり、それらしきものはあるのだと思う。実在するものではないけれど、人々の意識の奥にはある。意識の方を主とするならば、神は確かに実在するということにもなる。(意識の側から見ると、直接経験できるのは「純粋経験」のみであり、物質という存在の方は意識が直接経験することはできず、仮定しているだけのものである。確か西田幾多郎著『善の研究』にはそのようなことが書いてあったと記憶している。)

幸福の科学」の唯物論批判のデタラメぶり

幸福の科学」では散々唯物論や無神論を批判して、悪魔の思想だなんだと言っていた。私も信者時代は無批判にそれを受け入れていた。退会後も暫くは、エル・カンターレは偽物であるが、神や霊魂の存在は信じていた。無神論者や唯物論者にだけはなるまいと思っていた。
だが、それこそが最大のマインド・コントロールであることに気付いた。退会者の中でも、神や霊魂の存在まで否定する人は少数派だろう。
幸福の科学」では、唯物論者や無神論者は利己的で愛がない、というような批判もされていた。しかし、それは一方的な決めつけである。まだそこまで読んでいないのだが、『神は妄想である』の第六章には、そのことに対する反論がなされているようである。
ちなみに、現在の私は唯物論者であり、かつベジタリアンを志向している。「幸福の科学」信者を含むスピリチュアリストは、肉体は本質ではないと考えているから、平気で肉食をする。殺される動物たちの痛みを考えようともしない。仮に考えても、「感謝すればいいのだ」と言って済ませてしまう。
オウム真理教の例にも見えるように、個々の生命を軽んじるのは、スピリチュアリストの方である。
幸福の科学」では、伝統仏教が無霊魂説や唯物論のように解釈されることを批判していたが、今になって思えば、そちらの方が正しかったのである。

「そんなことができるとは知らなかった」

ところで、話が前後するけれども、『神は妄想である』で最も衝撃を受けたのは、「はじめに」の中の以下の部分である。

私の妻のララは子供のころ、通っていた学校が大嫌いで、できるものならやめたいと思っていた。後年、二十代になったときに、彼女が両親にこの不幸な事実を打ち明けると、母親は仰天した。「でもおまえ、どうして私たちのところへ言いにこなかったの」。そのときのララの答は、「でも、そんなことができるとは知らなかったのよ」だった。これが、今日ここで取り上げる主題である。
私は、そんなことができるとは知らなかった。
世の中には、特定の宗教の強い影響のもとで育てられたが、居心地の悪さを感じていたり、その宗教を信じることができなかったり、あるいはその宗教の名によっておこなわれる悪徳に心を悩ませたりしている人間がたくさんいるのではないかと私は疑っている──いやむしろ、確信している。つまり、両親の信じる宗教を捨てたいという漠然とした願望を抱いていて、できればそうしたいと思っているが、離脱が現実的な選択肢であると気づいていないだけの人々がいるはずだ。もしあなたがそうした人間の一人なら、本書はあなたにこそ読まれるべきである。この本は、読者の意識を高めること、すなわち無神論者になりたいというのが現実的な願いであり、勇敢ですばらしい願いでもあるという事実を、読者に気づかせることを意図したものである。
(中略)
骨の髄まで染み込んだ信仰の持ち主は、議論に左右されることがなく、彼らの抵抗力は何世紀もかけて成熟した(進化によって、あるいは神の設計によって)方法を用いて、何年にもわたる子供時代の教化を通じて築かれたものである。彼らが用いる効果的で単純な免疫装置のなかの一つに、本書のような本を開くことさえ避けるように厳重に警告する、というものがある。まちがいなく悪魔の著作だからだ。しかし、世の中には、こだわりのない心をもつ人間がたくさんいると私は信じている。子供時代の教化がそれほど陰湿ではなかったか、もしくは他の理由で「効か」なかった人々、あるいは、それらを克服するだけ強い知力をもって生まれた人々である。そうした自由な精神は、宗教という悪習から完全に逃げだすのに、ほんのわずかな後押ししか必要としないだろう。少なくとも、本書を読めば、「そんなことができるとは知らなかった」とは、誰も言えなくなることを期待したい。

この部分だけで、既に私は蒙を啓かれた。子供時代から植え付けられた「無神論・唯物論は悪」という教えは、退会してからも抜けることがなかった。私も「そんなことができるとは知らなかった」のである。
しかし、この「ほんのわずかな後押し」のお蔭で、私は自分自身の考えに最も近い立場を見つけることができた。
無神論」や「唯物論」への転向を宣言することは、恐らく、多くの「幸福の科学」アンチ・退会者からも誤解され、距離を置かれることになるだろうけれども、それも仕方ないことである。真摯に真理を探求すれば必然的にここに行き着くというだけのことである。
私は、特定の神を信じず、人格神を認めないという意味で無神論者であり、肉体の他に霊魂なるものが存在しないことを確信しているという意味で無霊魂説であり、唯物論者である。
死後の生というものはあり得ない。だからこそ、後世の人たちに何かしらの教訓を遺したり、よりよい社会を築くために生きなければならない。進化論を踏まえると、そう考えるのが自然である。個人は自然の一部であり、長い歴史のほんの一部であり、社会の一細胞である。そこから「利己的に生きてよい」という発想は出てこない。
幸福の科学」では、「唯物論者は、人生はこの世限りだと思っているから、自己中心的に生きるのだ」ということを言っていたが、その批判もデタラメである。全く正反対である。
それでも、つい最近まで私の心を縛っていた。これが最後にして最大の「マインド・コントロール」かも知れない。