幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

ブログ村「幸福の科学」カテゴリの一連の騒動を見ていて思い出したこと

「お前もわるいが俺もわるい」と云われるよりは、ただ自分だけを静かに見詰められることの方がどれだけ感激的・教訓的だかわからない。両者の非を同時に認められることは、一見合理的のようではあるが、教育の余蘊はこれがためになくなるのである。教育は余蘊=不合理にこそ生ずるものであって、余蘊のないところには教育はないのである。自分と共に相手をわるくいうということは五分と五分、教育の帳消しであって、その上教育の感奮力は起こらないのである。が、ただ自分だけを静かに見詰められると「済まなさ」の感情が自発的に込み上げてきて、「いいえ、わたくしこそ悪かったのです」と云わずにはおれなくなるのである。この懺悔・遷善の情を積極的に引き出すことが教育であって、いわゆる宗教教育とは被教育者のこの尊い感情を──宗教的情操を積極的に引き出すことである。


(中略)


ところがこの不合理──人を責めずして自分だけを責めるということは(普通の人情では)一寸胸糞のわるいことである。が、この胸糞のわるいことを堪えてやるのが愛であって、愛は十字架の歓びであり、自己の「言い分」を十字架に掛けて相手を楽にしてやることである。愛は慈悲=抜苦与楽と註されている。


(中略)


真に人を納得せしむるものは宗教的不合理であって、真理とは、道徳とは、真の此の世の美しさとは、この不合理のうちにこそ生ずるのである。「僕がわるかったのだけれど」、「いいや、僕こそわるかったのだ」という関係がこの世で最も美しい関係なのである。(中略)これをまた「自己を知る」という。自己を知ることが一切道徳の根源である。これを「争いの火消し壺」とも云う。例えば、
「お前がわるい」、「いいえあなたがわるい」、「そういうお前のそこが欠点だ」、「いいえ、そういうあなたのそこが欠点だ」という無限の責任のなすり合い、「争いの公式」に於いても、「そうだ、僕のここが悪かったのだ」という自己を見詰める一言で争いはぴたりと留まるのである。すなわち無限に放射している外面的知識の平行線も、この「内観の磁石」によって一点に集中せしめられるのである。「自己を知る」ことは争いの火消し壺ではないか。

山下英吉著『科學の剃髮』(昭和十五年刊)より(漢字と仮名遣いは改めました)。七十年以上前に書かれた無名の教育者の文章です。
私にはこれ以上付け加えるべき言葉はありません。分からない人には何を言っても分からないでしょうが、分かる人に分かって貰えればと思います。