読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

『神は妄想である』第二章から第四章の感想

引き続き読書中です。別に熟読しているわけではなく、他に色々あって読むのが遅れているだけです。翻訳物であるためか、日本語として不自然な表現も散見されたりするのが個人的には気になりますが、内容は非常に刺激的です。

祈りには効果がない

最近の大川きょう子さんのfacebookでは「効果がある」という事例が示されていましたが(http://www.facebook.com/kyoko.okawa.1/posts/539889142765112)、この本の第二章「では、その全く逆の調査例が紹介されていました。
私は、「祈り」というのは気休めか自己満足かプラシーボ効果に過ぎないものだと考えています。真剣な祈りが効果を発するのだとしたら、それは祈りの効果ではなく、真剣さの効果でしょう。祈りたくなるほど真剣で強い意志が成せる業というのはあるし、その意味で「祈りには効果がある」と言うこともできるかも知れません。でも、その影響は、自分自身の行動や思考に限定されます。無関係の他者の肉体や心を変えたりする力はありません。それは、「幸福の科学」に於ては、佐々木英信さんが新宿精舎で講演中に倒れ、その話を聞いた信者が全国で一斉に病気平癒祈願をやったけれどもその甲斐虚しく亡くなったということで実証されました。少なくとも、「幸福の科学」の病気平癒祈願に効き目は全くありません。私は、あらゆる宗教の病気平癒祈願には、物理的現象を起こす力はないと確信しています。暗示で病気が治るなら、催眠術師にお願いした方がましでしょう。(ただし、暗示では病気は治らないのは当然です。)

個人的な「体験」をもとにした論証

第三章「神の存在を支持する論証」では、トマス・アキナスの証明から始まって、「神の証明」をしてきたとされる論証に対する反論をしています。
以下はそのうちの一つのです。

多くの人は、自分が神の──あるいは天使や聖母の──姿をその目で見たことがあるという理由で神を信じている。あるいは自分の頭のなかで神が語りかけたから、神を信じる。この個人的な体験をもとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、もっとも説得力のある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、もっとも説得力のないものである。
(中略)
神経生物学者のサム・ハリスが『信仰の終焉』で次のように書いたとしても、それほど過剰に皮肉な言い方というわけではなかった。

合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ人々を指す名称はいくつもある。そうした人々の信念が極端にありふれたものであるとき、私たちはそれを「宗教的」と呼ぶ。そうでないときには、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは「妄想的」……と呼ばれる。明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。だが、私たちの社会において、宇宙の創造主があなたの考えに耳を傾けることができると信じるのは正常であるとみなされるが、「雨音が寝室の窓を叩く音は、神がモールス信号で交信してきているのだ」と信じるのが精神の病の現れとされるのは、単なる歴史のめぐりあわせにすぎない。だから宗教的な人間一般が狂っているとは言わないが、彼らの核心にある信念は間違いなく狂っている。

「宗教」というものを痛快に斬ってくれています。ところで、ドーキンス氏も似たような体験があったようです。

私は子供のころ一度、幽霊の声を聞いたことがある。男の声で、まるで朗読かお祈りでもしているようにぶつぶつと呟いていた。完全にではないが、言葉をほとんど聞き分けることもできた。それは真剣で厳粛な声音であった。古い家には司祭の隠れ穴があるという話を聞かされたことがあったので、少しばかり怖かった。しかし私はベッドから出て、音の源に向かって這ってにじり寄っていった。近づいていくにつれて声はしだいに大きくなっていき、そのあと突然、私の頭のなかで「反転」が起きた。いまや十分音の近くまで来ていたので、その正体をはっきり聞き分けることができた。鍵穴を吹き抜ける風のたてる音を素材にして、私の脳内シミュレーション・ソフトウェアが、厳粛に詠唱する男の声というモデルを構築してしまったのだ。もし私がもっと感じやすい子供であったら、単なる理解不能なつぶやきではなく、はっきりとした単語や文章さえも「聞いて」しまっていたかもしれない。そして私が感じやすいだけでなく、宗教的な育てられ方でもしていれば、風が何かを語っているのかと不思議に思ったことだろう。

もう一つ、窓の隙間に「顔」が見えたが、よく見たらカーテンだった、というのエピソードも語られていました。この辺のことは、第十章でまた詳述されるようなので、楽しみです。
人間の脳が見せる幻覚については、過去に私も書きました。

こちらです。リンク先を辿ると、幻覚の仕組みが実体験としてよく分かります。幻聴の仕組みも同様であり、幻覚や幻聴は、人間の脳が作り出すものです。神や霊といったものは、一切関係がありません。

「パスカルの賭け」について

第三章で言及されていました。

あなたは神を信じたほうがいい、なぜなら、もしあなたが正しければ永遠の幸福という利得を得るが、まちがっていたとしても、いずれにせよ失うものはないだろう。それに対して、もしあなたが神を信じないとして、それがまちがっていることが判明すれば、あなたは永遠の苦しみを得ることになるが、正しかったとしても、何の利得もない。悩む必要がないのは明らかだ。神を信じなさい。

これが「パスカルの賭け」だそうで、ドーキンス氏もわざわざ取り上げて丁寧に反論してあげています。
私は、この「パスカルの賭け」は、どうも、西洋的な個人主義的価値観に基づいた論証のように思われます。自分だけが「永遠の幸福」を得られればそれで良い、というような考えがあります。
神を信ずることにより発生する弊害というものを全く無視してしまっています。人類はやはり少しずつですが全体として進歩しているものです。より真理に近いものが常識として広まっていくことが望ましいことです。「神」などという妄想を捨てることで得られる全体の利益は、旧態依然とした「信仰」を続けることよりも遙かに大きいものです。
上の例で言えば、「正しかったとしても、何の利得もない」というのは間違いです。それはやはり個人主義的にしか見ていないのであり、全体としては正しかったとしたら大きな利得があるのです。人々がより幸福に生きるためには、より正しい考えを選択して、それが後世に伝わっていくことは重要なことです。

「究極のボーイング747作戦」

第四章冒頭から。

ホイルは、地球上に生命が起源する確率は、台風がガラクタ置き場を吹き荒らした結果、運よくボーイング747が組み上がる確率よりも小さいと言った。(中略)創造論者お気に入りの論法であり、自然淘汰のイロハを理解していない人間だけがおこなうことのできる主張である。こういう人々は、自然淘汰を偶然だのみの論法と考えているが、ところが、この理論は言葉の正しい意味での偶然とは、正反対のものにほかならない。

これは、大川隆法も同じようなことを言っていました。例によってゆーぱさんの所から引っ張ってきますと、

現在の進化論の主流というのは、偶然の連鎖によって人間ができていると、現時点の肉体と精神を持った人間ができていると主張しております。
これはいってみれば、コンクリートのかたまりや砂や砂利や、あるいはブロックとか、鉄筋とか、こういうものが転がっていて、偶然に風が吹き、偶然に雨が降って、コンクリートがこねあげられて、そして、いつの間にか鉄筋が積み上がって、つまり、偶然に地震か何かで鉄筋が積み上がって、そして超高層ビルができた、というのと同じなのです。

こんな感じです。読書家の大川隆法氏ですから、どこかで創造論者の文章を読んでこのようなことを書いたのでしょう。私も信じてしまっていましたが、ドーキンス氏が啓蒙して下さいました。
大川隆法というのは、頭が良いだけあって、こういう尤もらしい説明がとても得意です。私が宗教詐欺師と呼ぶ所以でもあります。それに対抗するだけの知識を持たない青少年であれば、コロッと騙されて信じてしまいます。
真実は、「偶然の連鎖」ではなく、「自然淘汰による進化」です。「超高層ビル」という比喩も適切かどうかは不明です。「設計者」の存在など仮定しなくても、現に人類は存在し、多様な生物が生きています。
やはり、神が人間を創り出したのではなく、人間が神という妄想を創り出したということに過ぎないでしょう。
進化論を信じるか創造論を信じるかという二択は、現実と妄想のどちらを信じるかという二択と同じだと思います。私は現実を生きていきたいです。だから私は無神論を選択します。