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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

『神は妄想である』第五章「宗教の起源」の感想など

レビュー 教義批判

この章は、無神論や進化論の立場から、「自然淘汰というなら、どうして宗教というものが起こり今まで生き残ってきたのか?」という疑問に対して答えている章であった。

ジョン・バーナード・ショーの言葉を借りれば、「信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っぱらいのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない」。

これはまことに尤もなことであると思った。
宗教の起源については、蛾が光に向かって飛ぶ習性があるが故に、誤って火に飛び込んで自殺してしまう例を挙げて、「何かの副産物ではないか」ということを指摘している。
ドーキンス氏の説は、こうである。

人間はほかのどんな動物よりも、先行する世代の蓄積された経験によって生きのびる強い傾向を持っているのであり、その経験は子供たちの保護と幸福のために、子供に伝えられる必要がある。(中略)「大人が言うことは、疑問を持つことなく信じよ。親に従え。部族の長老に従え。とくに厳粛で威圧的な口調で言うときには」という経験則をもっている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ。年上の人間の言うことを疑問をもたずに信じよというのは、子供にとって一般的に有益なルールである。しかし、ガの場合と同じように、うまくいかないこともある。

と。これは非常に分かりやすいし、納得のいく説明である。他にも、他の論者による二元論説や恋愛説などが紹介されていたが、ドーキンス氏の「騙されやすい子供」説が最も分かりやすかった。
幸福の科学」信者を見ても、一様に子供っぽさが抜けていない面が多々見られた。「エル・カンターレ」などという壮大な虚構を信じられる人間というのは、中二病以外の何者でもない。ああ恥ずかしい。「幸福の科学」信者は例外なくアダルトチルドレンである。他の新興宗教やオカルト思想信奉者も同様である。

「神」や「宗教」という言葉の多義性について

ただ、この本を読んでいて、「宗教」とか「神」とか「信仰」とかいう言葉の多義性についてつくづく考えさせられた。ドーキンス氏の想定している「神」はキリスト教的(またはユダヤ教的)な神であり、ドーキンス氏の想定している「宗教」は、同じくキリスト教的な意味での「宗教」であるのだろう。
私が二つ前の記事で引用した山下英吉氏の言う「宗教」とか、西田幾多郎氏の言う「宗教」とかとは大きく異なっているように思われる。
人格神を信じている信仰者と、特定の教祖を信じている信仰者と、非人格的な神を信じている信仰者とでは、それぞれ立場も考え方も大きく異なる。
振り返って考えてみるに、私はドーキンス氏の言う意味では「無神論者」ではあるけれど、やはり信仰を持っていると言った方が、日本語というか日本文化の文脈としては適切であるように思う。人格的な神は人々の妄想であり存在しないということを確信しているという意味で無神論者であるけれど、確信しているということは不可知論者ではないということであり、何らかの「信仰」を持っていなければそのような判断は下せない筈である。つまり、私は私の「神」を信じているということになる。私の「神」が人格神は存在しないと言っているのである。
で、この章を読み進めているうちに、私の「神」というのはドーキンス氏の言う「ミーム」、即ち文化的遺伝子というものに近いのではないか、と思った。(ちなみに私はこの章で「ミーム」という言葉を初めて知った。)
科学的真理とは別に、宗教的真理というものはある。自分にとって都合が悪くても嘘を吐かず正直に生きることとか、自分のことを後にして他人のことを先にするとか、人の苦しみを我が苦しみとするとか、人に迷惑を掛けてはいけないとか、自分のして欲しいことを他人に施せとか、そういうことは、単純な無神論や唯物論からは出てこない。(逆に、信仰を持っているからと言ってそれが出てくるものでもないことは、ブログ村「幸福の科学」カテゴリでの一連の騒動を見ても分かることである。)
私は、宗教団体は不要であると思うが、宗教的思想は必要であると思う。そして、真に宗教的であったとしたら、分からないことは分からないと言うのであり(無知の知)、オカルト思想の入り込む余地はないとも思う。(宗教的思想を形成したりする広めたりのに宗教団体が必要だというのなら、必要なのだろう。)
山下英吉氏は、「迷信──科学──宗教、という弁証法的発展である」というようなことも言っておられた。捨てるべきは旧来の宗教の中にある迷信的な部分であり、その部分は「科学」によって徹底的に批判されて良い。そうして迷信の中から削り出されるものが真の宗教なのであると思う。

批判されるべきは「個人主義」ではないか

恐らく次の章の話題にはなると思うのだけど、「幸福の科学」は常々無神論や唯物論を批判して、それでは利己主義的に生きる人間が出来上がりユートピアができないのだ、ということを言っていた。
しかし、無神論者や唯物論者であっても、愛とか道徳とかいう価値は大切にして生きていたりする。「幸福の科学」に於ける唯物論批判は、唯物論に対する批判なのではなく、個人主義に対する批判だったのではないか、と思うのである。
「我のみ善かれ」という利己主義が批判されるのは、無神論や唯物論に於ても同様である。それを勝手に無神論=唯物論=利己主義、という風にな決め付けて批判していたように思う。
ドーキンス氏は無神論者で唯物論者で進化論者であるが、「ミーム」という考え方を示している。
私は、人間というのは長い歴史を持つ社会の中の一細胞であるという基本的な考え方を持っている。それは「幸福の科学」で教わったことではない(とは言っても、思想のコピペ家である大川隆法のことだから部分的にそれらしいことは説いていたりもするが、教義の根幹部分では寧ろ逆である。そのことは後述する)。西田幾多郎氏や倉田百三氏や山下英吉氏の著作を読んで深めた考え方である。
批判されるべきは、無神論や唯物論ではなく、伝統や社会から切り離して自分の主観のみで個人主義的に生きようとする態度ではないか。
その意味では、寧ろ「幸福の科学」の世界観の方が余程個人主義的である。
輪廻転生の思想にしても、スピリチュアリズムの間でも輪廻思想には差がある。
幸福の科学」的な輪廻観では、「六人の魂の兄弟が居る」と言っても、それは全て自分自身の中の個性である。何億年にも及ぶ「転生輪廻」をその六人のみで共有しているだけである。その考え方から、地上の他者と繋がりは出てこない。極めて個人主義的な輪廻観である。
他のスピリチュアリズムでは、例えばシルバーバーチの思想の場合、「類魂」という考え方が示されており、何万もの魂がグループを作っているとされていた。こちらは少し幅の広い輪廻観である。
また、日本の伝統では、先祖がその家系の子孫として生まれ変わる、という考え方だったそうである(ソースは失念)。「先祖が守護霊をしている」という考え方も一般的であった。この場合、家系という狭い範囲ではあるが、時間的には幅が広い。その家系の中の一部としての我という意識は強かったであろう。
ドーキンス氏の「ミーム」という考え方の場合、それは少なくとも同一の文化を持つ民族レベルにまで広がりそうである。並べた中では、この考え方が最も広い。
何故人は個人主義的にのみ生きてはいけないかと言うと、個人は社会の一細胞だからである。
批判されるべきは「個人主義」であって、無神論や唯物論ではない。
特定の団体や特定の思想のみを特別扱いすることを何と表現すべきなのか、ちょっとすぐに出てこないのだが、それも「個人主義」に含めるとすると、寧ろ信仰者やスピリチュアリストの方に思い込みの激しい個人主義者が多く、あちこちで騒動を巻き起こして問題となり、アンチカルトやアンチオカルトが誕生したり、ドーキンス氏がわざわざこのように『神は妄想である』と言わなければならない状況になっているということなのではないか。