幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

『神は妄想である』感想つづき

この続きです。

無神論と道徳

第六章「道徳の根源──なぜ私たちは善良なのか?」は、宗教者側からの、「宗教が無ければ道徳が出てこないではないか」といった批判に対して無神論・進化論の立場から反論したもの。
色々と述べられていたが、最も面白かったのは以下の部分。

「神がいなかったら、どうして善人でいられるのか?」
このように問われると、実に下劣に聞こえる質問である。ある信仰を持った人間が私にこういう形で言ったとき(そして信仰心の篤い人間の多くがそうする)、ただちに私は、こう異議を申し立てたくてたまらなくなった。
「あなたは本気で、自分が善人であろうとつとめる唯一の理由が神の賛同と褒美を得ること、あるいは非難や罰を避けることだとおっしゃるのですか?(中略)」
アインシュタインも言っているように、「もし人々が、罰を怖れ、褒美を期待するというだけの理由で善人であるならば、私たちはまったくじつに惨めなものではないか」。
マイケル・シャーマーは『善悪の科学』において、これを論争ストッパーと呼んだ。もしあなたが、神が不在であれば自分は「泥棒、強姦、殺人」を犯すだろうということに同意するのなら、あなたは自分が不道徳なことを暴露しているのであり、(中略)反対に、もしあなたが、たとえ神の監視のもとになくとも自分は善人でありつづけると認めるのであれば、私たちが善人であるために神が必要だというあなたの主張は、致命的に突き崩されてしまったことになる。

要は、善悪というのは人が決めるものであり、神が決めるものではないということだと理解した。
人々の意識の中に共通の「人間かくあるべし」といった理想とか道徳意識とかを名づけて「神」というなら神でよいが、当然、それは時代や地域、民族、集団等の条件によって変化することなる。
それは、数十年の時間しか持ち合わせていない一個人からすれば永遠とも普遍とも絶対とも思われるかもしれないが、実際には永遠でも普遍でも絶対でもない相対的なものである。絶対でないものを「神」と呼び、絶対であるかのように思い込むことから、絶対と絶対がぶつかり合って宗教同士の争いが生まれるのであろう。
ドーキンス氏はこのようにも述べている。

私はかならずしも、無神論が道徳性を高めると主張しているわけではないが、ヒューマニズム──しばしば無神論にともなう倫理体系──は、たぶん高まるだろう。もう一つありそうな可能性は、無神論が何か第三の要因、たとえば高等教育、知性、あるいは思慮深さといったものと相関していて、それが犯罪衝動を抑えるようにはたらくかもしれない。

神などという妄想を信じてしまうような有神論者は知性的に劣っていて思慮深くないから犯罪衝動を抑えられない、と暗に言っている。

「善人が悪事をなすには宗教が必要である」

第七章より。

ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーヴン・ワインバーグが言うように、「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。ブレーズ・パスカル(パスカルの賭けのパスカルである)も似たようなことを言っている。「人間は、宗教的な確信をもっておこなっているとき以上に、完璧かつ快活に悪をなすことはない」。

このことは非常によく思い当たる。「幸福の科学」を退会してアンチになってから、信者からどれほど罵声を浴びせかけられたり、脅迫をされたりしたことだろうか。彼らが普段はとてもいい人たちなのはよく知っている。自分たちでは「信仰を守るのだ」というつもりで激しくやっているのだろうが、彼らの狂信ぶりを見ていると、やはり、宗教不要論という結論に至ってしまう。
大川隆法が最大のアンチ量産家であるのは間違いないが、その信者たちも教祖に倣って自分たちの評判を落とすことをやり続けているのである。

無神論マルクス主義ではない

同じく第七章から、スターリンとヒトラーについて述べられた部分より。

その仮定とは、(1)スターリンとヒトラーは無神論者だった、のみならず、(2)彼らがその戦慄すべき行ないをしたのは、無神論者であったがゆえであるというものである。(中略)問題は、ヒトラーとスターリン無神論者であったかということではなく、無神論者が一貫して人々を邪悪な行ないに向かわせるかどうかである。しかし、そうだというどんなわずかな証拠さえ存在しない。
(中略)
個々の無神論者は悪事をなすかもしれないが、彼らは無神論の名において悪事をなすわけではない、ということだ。スターリンとヒトラーは極端な悪行をそれぞれ、独善的かつ教条的なマルクス主義と、ワーグナーふうの狂乱の色合いをもつ、正気の沙汰ではない、非科学的な優生理論の名のもとにおこなったのである。宗教戦争は実際に宗教の名のもとで戦われ、それは歴史上おそろしいほど頻繁に見られる。一方、無神論の名のもとで戦われたいかなる戦争も、私は思い浮かべることができない。

云々と。日本ではオウム真理教という事例がある。「幸福の科学」では、かつて、「宗教は悪」ということに対する反論として、宗教にも違いがあり、確かに一部そういう邪教もあるが、正しい宗教もあるのだ、ということを主張していた。
しかし、その後の「幸福の科学」教団や信者の行動を見ていると、宗教に特有の弊害(非寛容さや排他性、非現実的な妄想を信じる狂信性など)が現れており、宗教というジャンルそのものがおかしく、「特定の信仰を持つ」ということがやはり一種の精神異常状態なのではないかと思われてならない。

宗教のどこが悪いのか

第八章「宗教のどこが悪いのか?」より。

宗教上の原理主義者たちは、自分は聖典を読んだのだから自分の考えは正しいという考え方をする人たちで、何をもってしても自分たちの信仰が変わることはないと、あらかじめ知っている。聖典の真理はいわば論理学でいう公理であって、推論の過程によって生み出される最終産物ではないのだ。聖典こそは真理であり、もし証拠がそれと矛盾するように思えるなら、捨て去るべきはその証拠であって、聖典ではない。それに対して、私が科学者として真実だと考えること(たとえば進化)は、聖典を読んだからではなく、証拠について調査・研究をおこなった上で、真実だとみなしているのである。彼らと私のやり方は、まったくと言っていいほど異質なものだ。進化に関する本は、それが神によって書かれたから真実だと思われるわけではない。互いに補強しあう圧倒的な量の証拠を提供する本だから、信用されるのである。科学書がまちがっているときには、最後には誰かがそのまちがいを発見し、その後の書物によって訂正される。しかしそういうことは、聖典に関しては明らかに起こりえない。

まさにこれで、信者と会話が成立しないのは、幾ら矛盾点や間違いを指摘しても、「聖典」の方を取るからなのである。トロポサイトさんのいつでも教義を修正できる宗教があれば | troppositeこの記事を思い出した。

まとめ

第九章と第十章もあるが、返却日の都合もあり、流し読みで済ませた。全体として、現代の啓蒙書としては素晴らしいと思った。私自身のマインド・コントロール、心の縛りがまた一つ解け、自由な発想ができるようになったと思う(具体的には「信仰は大事である」とか「無神論や唯物論はいけない」とか、そういう縛りが解けた)。
問題としては、キリスト教が中心であるということ。「宗教」とか「神」とか言っても、日本的な文脈とはニュアンスが異なっていることがある。

日本語としていまいち

あとは、上記引用文からも分かるけれど、文章全体が翻訳調であり、日本語としてこなれておらず、読みにくい部分が多々ある。読んでいて余り心地よくない。日本語で書かれた文章である以上、そういう所も重要なポイントである。

翻訳がひどい。
読みづらい日本語が多すぎる、
原文の面白みがうまく表現されていない、など
いろいろ改善すべきところがある。
この本はすばらしい。翻訳がそれを台無しに。

amazonレビューで同じような感想を持っておられる方がいた。
巻末の訳者あとがきを見ても、翻訳力というよりは、失礼だけれど、もともと国語の文章力がいまいちな方なのだなと思った。
トータルとしては良い本なのだが、内容的にも文章的にも日本人としてはすんなりとは入ってこない部分がある。できれば、同様の主旨で、日本人が日本の文脈で書いたものを読んでみたいと思った。