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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

スピリチュアリズムの唯物論に対する誤解(決めつけ)

教義批判

西田は、時代時代の個性を認め、その客観的な(厳密な資料に基づいた)歴史記述を行おうとしたランケに強い共感を示している。たとえば『続 思索と体験』(一九三七年)に収められた「歴史」(一九三一年)というエッセーの中で西田は「各の時代は神に直接して居る、その時代の価値はそれから何が出たと云ふにあるのではなくして、その時代の存在そのもの、その時代そのものにある」(七・二五九)というランケの主張に言及している。この主張は、西田の「永遠の今の自己限定」、あるいは「現在が現在自身を限定する」という考えに通じるものであった。西田もまた、歴史は、因果的な法則に従って移りゆくのではなく、それぞれの時代がそういう一般的法則で説明されない個性(あるいは非合理性)をもっていると考える。歴史の各々の時代は自然因果的に前の時代から生まれるのではなく、それぞれが、あるいはその一歩一歩が、絶対に接している、その一歩一歩が絶対的な価値をもっていると考えた点に、西田の歴史理解の特徴があると言える。

藤田正勝著『西田幾多郎の思索世界』(岩波書店)第二章「生と表現、そして美の問題」より。これなのだ。
時代精神」という言葉もあるが、時代そのものが個性を持つという考え方は、唯物論とスピリチュアリズムを繫ぐためのヒントにもなると思う。
うろ覚えなのだが、西田幾多郎は、別の所では「人間というのは社会の一細胞なのだ」というようなことも言っていた。人智を越えたものというか、個人の意識を越えた所にあるものは確かにある。
それは、私の理解では、こういう風な説明になる。人間というのは、歴史ある社会の中に生きているものである。「私」という個性そのものが、その社会から生み出された存在であるし、また社会の中で一定の働きを持ち、社会に対して影響を及ぼす存在でもある。ちょうど、細胞が集積して人体を構成しているように、一人一人の人間が集まって社会を構成している。
一つ一つの細胞を見ても人間の個性は見えてこないが、人間全体を見れば、個性というのは確かにある。同じように、時代や社会にも個性が認められる、ということだろう。
それは、進化生物学者のリチャード・ドーキンス氏が提唱している「ミーム」という考え方と同一だろうし、ユングが「集合的無意識」と呼んだものと似たものだろう。更に、スピリチュアリズムで「神」とか「霊界」とか「守護霊・指導霊」などと呼ぶものとも重なってくるものだろうと思う(脳科学では「ミラーニューロン」というものもあるそうであるが、それも何か関連があると思っている)。
それぞれ、文化や研究の仕方からくる表現の違いがあるのみで、結局は同じことを指しているのだと思う。
だから、神とか霊界とか言う場合、単純に「妄想である」と言って切って捨ててしまうのではなく、その中にも真実は含まれていると思う。ただし、スピリチュアリズムの場合、客観的なものがなく*1、主観だけの世界であるので、誤りやすいことが多いというのが注意点である。例えば、常に修行をしていて、自分に厳しく、決して噓を衝かず、間違えた時は過ちを認めて素直に反省し謝罪する、というような誠実な態度のスピリチュアリストの言うことなら、多少は耳を傾ける価値はあるし、共通の理解まで到達する可能性もある。
スピリチュアリズムの批判する唯物論というのは、人間を単に切り離された個人として考え、その結果として単に利己的にのみ生きるといったものであるが、実際の唯物論者の主張とはかけ離れている。
つまり、唯物論にも個人主義と集団主義の別があるということだと思う。個人主義的唯物論なら批判されてよい。
同様に、スピリチュアリズムにも個人主義的スピリチュアリズム集団主義スピリチュアリズムがある。「幸福の科学」のそれは、個人主義的スピリチュアリズムである。それは、「同一の個性を持った人間が永遠に転生していく」という輪廻観によく現れている。自と他が永遠に交わることのない世界観を持っているのである。「幸福の科学」が上から目線と言われたり、愛を説いているのに愛がないと言われる理由はそこにある。
必ずしもスピリチュアリズムそのものが悪いのではなく、スピリチュアリズムの中の個人主義的スピリチュアリズムが悪いのである。同様に、唯物論が悪いのではなく、唯物論の中の個人主義的唯物論が悪いのである。
もちろん、「集団主義」と言っても、秩序を守るために個性を殺してしまうようなものや、個人の生命を軽んじるようなものは行き過ぎであるのであり、個人主義でも集団主義でも極端に走ると良くない。より正確に言うと、集団主義を忘れた個人主義や、個人主義を忘れた集団主義がいけない、ということになるだろうか。何事もバランスが大事である。

*1:客観的なものがあったとすれば、それは「疑似科学」であり、逆に危うい