幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

「幸福の科学」は個人主義的スピリチュアリズムである

このブログについて

前のブログは『幸福の科学根本教義批判』という形で纏めて同人誌として頒布した後で閉鎖しましたが、このブログも、いつか暇を見てよきところを纏めて同人誌か電子書籍にしたいと考えています。タイトル案としては、『退会の法 〜脱マインドコントロール段階論〜』とか『「幸福の科学」を退会したら読む本 〜続・「幸福の科学」根本教義批判〜』とか。

で、昨日の続き。

個人主義と集合主義という対立軸で物事を見た場合、日本で個人主義が強くなったのは、明治維新以後の西洋文明の流入から始まると思う。

出口王仁三郎の場合

圧倒的な西洋の科学文明を目の当たりにした日本人は、それを忌み嫌いつつも、「和魂洋才」とか「瘠我慢の説」とか言ったりして、それをやむなく採り入れた。それが明治維新というものであった。
ところが、それを忘れて、「和魂」と言っていた「魂」まで西洋に売り渡すようになってしまうのには、さほど時間が掛からなかったようである。やがて、科学的合理主義や米国的な個人主義的発想が日本中に広まった。
そういう流れに反対して起きてきた動きの一つが、出口王仁三郎の興した大本教であったと思う。出口王仁三郎は、「利己主義」と「弱肉強食(または優勝劣敗)」を、それぞれ「われよし」、「つよいものがち」とルビを振って、西洋から来た悪魔の思想であるとして退けようとした。
恐らく、出口王仁三郎は、従来の神道には西洋発の「利己主義」や「弱肉強食」の思想を押し返すだけの力がないと直感し、「艮の金神(国之常立神)」という、世間にはよく知られていないが実は超強力な神がいたという設定を創作して、「利己主義」や「弱肉強食」の思想に対抗しようとした。
自分の主張を権威づける手段としてオカルト的な方法を使ったことは問題があるとは思う。ただ、そういう方法を使ったからこそ、当時の多くの人の共感や支持を得ることができたのだろうとも思う。
私の昨日の論に当て嵌めると、出口王仁三郎の場合は、集合主義の考えの強い日本の伝統的思想の側に立つ者であり、集合主義的なスピリチュアリズムになる。
米国流の個人主義的発想や弱肉強食的(自由主義的)発想というのは、その後、日米戦争の敗北を経て数十年、弱まるどころかより一層強まってきて、じわじわと浸透してきている。だから、出口王仁三郎の主張は今もなお有効である。例えば、その証拠に、大本教の信者ではない若いアーティストたちが、出口王仁三郎の子孫たちとの交流を通じて、その遺徳を慕い、大本教の聖地である綾部に集ってきているという現象も起きている。

幸福の科学」の場合

同じスピリチュアリズムでも、「幸福の科学」の場合は大本教とは正反対の立場である。集合主義ではなく、個人主義的な立場であり、反米ではなく親米である。
幸福の科学」の根底には、強い反共思想がある(それは統一協会とも共通しているもののようである)。教祖の気分次第で過去世認定等はコロコロ変わるが、当初から一貫しているものを見れば、その本質が見えてくる。例えば、当初から一貫しているのは、「マルクスは地獄に堕ちている」ということがある。共産主義に反対するあまり、当然唯物論も否定するし、親米にもなる。
また、「成功の法」や「常勝の法」、「富の法」などと言って、物質的豊かさや経済的成功と言ったものを肯定する功利主義的な側面がある。
私は、「幸福の科学」というのは、オカルト的な要素を除けば、極めて現代的な宗教であると思う。(オウム真理教などの他カルトと比べて)比較的多くの人が支持し、短い間にここまで発展したのも理解できる。
ところで、教義的には自由を重んじる「個人主義」の筈なのだが、組織の下々の人たちは、抑圧されて苦しんでいるということがある。ここは教団内部の人も疑問に感じているかも知れないが、米国的な自由主義を理想としてそのまま日本に持ち込もうとしたのが「幸福の科学」であると考えるとよく分かると思う。米国は、自由主義を押し進めた結果、格差社会が広がって、ほんの一握りの人だけが自由を満喫し、大多数の人は不自由な生活をしている。
過去の記事でも言及したのであるが、「幸福の科学」の信仰形態は、極めて未熟なものであり、サド・マゾの関係である(『ビートたけし守護霊の霊言』のPR動画の感想ほか - 幸福の観測所参照)。教団内では、教祖やその取り巻きや幹部たちだけが自由を満喫し、各精舎の館長や支部長たちは「目標」を押しつけられている。支部に於ては、今度は支部長が「目標」を盾に信者たちに活動を強要し、大多数の信者たちは抑圧された不自由な生活をしている。教団内で抑圧されている信者は、家庭内になるとその立場は変わり、今度は「信仰」を盾に自己中心的に振る舞い、子供を抑圧することでストレスを発散することになる。こうしてSM関係は連鎖してくるのだが、最後の子供には、家庭以外に逃げ場が無く、精神を病んでいく道しか残されていない。
個人主義(利己主義)と弱肉強食は、「自由主義」という言葉で結ばれている。「利己主義」とか「弱肉強食」と言えば悪いことだと分かるのだが、「自由主義」とか言われると、何だか悪くない響きであり、良いことであるかのように錯覚してしまう。
幸福の科学」が自由を重んじるというのは、信者も職員も認めるところであろう。ところが、その本質は、弱肉強食の肯定でしかない。「幸福の科学」信者に分かりやすい言葉で説明すれば、「レプタリアン的だ」ということである。
弱肉強食はいけない。利己主義もいけない。平和な社会を築くためには、爬虫類性を薄めていかなければならない。自由主義を押し進め、格差社会を認めることは、人類レプタリアン化計画というようなものである。格差社会を肯定し、TPPを推進し、政策的には経済効率重視しか考えていないような「幸福の科学」は既にレプタリアンに乗っ取られてしまっている。