幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

信者や元信者の「叫び」が聞きたい

人が輪廻や来世を信じたくなる理由

まずは前置きの話から。
人が輪廻転生や来世を信じたくなる理由として、人生に於ける幸不幸がそれぞれの人間で不平等であることが挙げられる。
生まれながらにして貧富の差はあるし、容姿や能力、性格、家庭環境等に違いがある。それは誰にも否定できない。チャンスは平等だと言っても、生まれついての差というのは埋めがたい。努力で補うことはできると言っても、努力をすることも一つの才能であることもまた事実である。
また、世の中には、不正なことをしていい思いをする人もいる。人を恨み、完全犯罪で誰にもバレないように殺す人もいる。社会を一方的に恨み、大量殺人を犯して自分も死んでしまうような人もいる。そのような悪人でも幸福に行き、天寿を全うする場合もある。
善人として生きても悪人として生きても、死んでしまえば一緒だというのは納得がいかない、死後に天国・地獄というものがあって裁かれなければ納得ができない、というあたりが、未だに「来世」(という誰にも証明ができない幻の世界)が多くの人に当然あるべきこととして信じられている理由の一つだと思う。
宗教を否定するならば、こういった人間の不平等を、来世を抜きにして納得できる説明をしなければならない。

説明その1:悪を為せば良心が痛む。そのことが罰である

よくある説明としては、このようなものがある。
悪を為せば良心が痛むし、善を為せば満足が得られる。仮に完全犯罪で誰にもバレないように不正なことをして利益を得られたとしても、その良心の痛みが不正の代償であり、一生苦しむことになる。悪人というのは悪を為した時点で既に罰せられているのである、云々と。
この説明は、一見納得が行くのであるが、当事者が悪と気付いていない場合には当てはまらない。例えば、良かれと思ってカルトの教えを広宣流布しているような人は、実際には他人に多大な迷惑をかけているのに、決して罪悪感などは持たない。また、サイコパスと呼ばれるような人も、良心を持たないと言われているので、罪悪感など決して持たない。そういう場合には、この説明では足りないものがある。

説明その2:悪を為すということが既に罰である

似た説明として、「悪人というのは悪を為すように追い込まれた時点で既に罰せられているのだ」ということもある。例えば、サイコパスと言っても、必ずしも生まれつきのものではなく、生まれ育った家庭環境の影響などもあるようである。幼少期に虐待されたとか、差別されたとか、そういうことがあって、人は歪んだ精神を持ち、犯罪的なことを為さざるを得なくなる。
仮に生まれつき良心を持たないとしても、生まれつき良心を持たないということが、その他の身障者等と同じく、生まれながらにしてハンディキャップを背負っているということであり、そのことを知りながら適切なサポートをしてあげられなかった周囲の人たちの責任ということにもなってくる。
ここで、やはり、「自己責任論」から離れて考える必要があると思う。人は一人で生きているものではない。必ず両親がいて生まれてくるものであり、社会との関わりを持って育っていくものである。
生まれながらの犯罪者というものはない。犯罪者が誕生するまでには、多くの人との関わりがある。としてみると、仮に一人で犯した罪だとしても、それまでその人と関わりを持ち、影響を与え、人格形成してきた周囲の人の責任というものはある。特にその親の影響は大きい。だから、子供に何か問題があったとき、「親の顔が見てみたい」と言ったりするのである。
何か問題が起きたとき、単純に「自己責任!」ということでその人一人の責任であるという風に切って捨てることは、正しい物の見方ではないと思う*1
例えば、学校でも会社でも家庭でも、あるコミュニティで何か問題が起きたとき、その陰には、必ずそのコミュニティの中に不正なことや歪みが潜んでいる。問題を起こした人一人の責任にしてはいけない。コミュニティ全体の問題として考えなければいけない。

説明その3:確かに不平等はある。だから平等にしなければならない

これは説明というよりも説得になるが、やはり、人間というのは、どうしても不平等である。だから平等に幸福を享受できるような社会を作っていかなければならない。犯罪とか自殺とかいうのは、不幸感覚が強いから起こるのである。世の中から不幸感覚を一掃したい。愛ある社会を築いていきたい。

不幸だと感じたら叫ぶべし

集団主義的観点からすると、身に不幸を感じている人は、それを他の人に伝えなければならない。
身に不平不満や不幸、その他泣きたいことや怒りがあったら、それは吐き出して他の人に伝達しなければならない。それは個人主義的観点からすれば悪と言われたりして*2、不平不満を口にすることを自主規制したりもする。
しかし、集団主義的観点からすると、不平不満を他者へ伝達するということは、社会の不正を明るみにして人々に知らしめ、不具合を矯正して、よりよい社会を築いていく力になるという点で、どうしても必要なことである。
犯罪とか、あるいは自殺とか、そういった大事になる前に、不平不満を聞き、世の中の不公平を正していくことが必要である。誰も聞いてくれなければ、叫ぶしかない。
アニメの話で恐縮だが、『氷菓*3というアニメで、「泣き叫びたいときは叫べ」というような台詞があった。続けて「叫べない子供は死んでしまうんだ」という話もあったと記憶している。
叫ばずに死んでしまうことのないように、叫んで欲しい。万が一、死んでしまった子がいたら、死者に口はないので、代わりに代弁してあげて欲しい。
最近はまたアンチブログも増えてきているようだが、

こちらのアンチブログなどは、タイトルが実に素晴らしい。
人を苦しめるような組織・団体・思想、そういうものを社会から淘汰して、よりよい社会を築いていくために、元信者の方々の叫びは必要である。「幸福の科学のせいで不幸になった」ということを、恥ずかしがらずに、もっと堂々と叫んで欲しい。それは決して自分のためではなく、多くの人のためである。他の人に自分と同じような不幸な人生を送らせないため、カルト宗教による不幸の拡大再生産を止めるために、どうしても必要なことである。

*1:私の立場は以前にも書いたように個人主義ではなく集団主義を重視している

*2:「心の三毒」などと言ったりして抑圧の対象となる

*3:ice cream=I scream