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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

参考になった他ブログの記事のご紹介

書きたいことは色々あるのだけど、最近は何かと忙しくてなかなか時間が取れません。今回は、他のブログやサイトの参考になった記事を幾つかご紹介します。

クリスチャン・スイトピーさんの日記から

男女問題や人間関係のトラブルに巻き込まれた場合に関するものです。

つまり、ストーカーの心の世界は、基本的には、乳児の『甘え』に支配された幼児的な世界なのである。
乳児が母親の心を配慮する事ができないのと同じように、彼らも相手の身になって考える事はできない。
もちろん、「相手が自分と同じように1個の自我を持った自立した人間で、自分を愛するも、愛さないも、自分の意思で決定する自由を持った存在だ」という現実は忘れられている。
だから、平気で迷惑千万な行為が続けられるのだ。
「ストーカーの心理学」(福島 章 著、PHP研究所)

なるほど、よく分かります。
私自身、そういう面が確かにあったし、その根源を辿っていくと、私の母が私に対して「一個の自我を持った自立した人間」という扱いをしてくれていなかった(そしてそれは現在に至るまで続いている)ということに原因がある、という風に私は自分自身を分析しました。「毒親との対決」ということが、自立するためには重要なことのようです。

こちらは上の記事の続きです。特に、

「未熟で依存的な人にかぎって、自分と同じように未熟で依存的な相手を選び、人間関係の上での様々なトラブルに巻き込まれる事が多い。」

この言葉に、思い当たる節が非常にありました。今の時代、カルトに限らず、そんな大人が多いようにも思われます。
「愛」の問題について、クリスチャン・スイトピーさんは、このように述べておられます。

人は助け合う事は大切だし、弱い立場の人を助ける事もとても大切な聖書の教えではあるけど、相手の何もかもを満たしてあげる事が愛ではないし、相手の要求を断らないで相手に合わせ過ぎるのは愛ではないのです。

その通りだと思います。

周囲の人たちは、その人が本気で問題を解決したい、回復したいと願い、自分で問題に取り組むのを支える事、援助する事はできます。アドバイスする事も励ます事も、話を聞く事もできます。
しかし、依存させる事は相手のためにならないし、それは愛ではありません。
相手の自立を妨げる事です。
そしてその人が対人操作をした場合は、きちんと境界線を引く事と、できない事、迷惑と感じる事、悪い事にははっきりと「ノー!」と言う事。
相手が自分のしている事を正当化したり、言い分けしたり、逆切れし続ける場合、相手との関わりで自分が疲弊する場合は距離を置く、関わりを絶つのも大切な事で、必要な事です。

この部分も非常に参考になりました。
ただ、個人的な理想としては、どんな相手でも見捨てないような人間でありたいとは思います。(それが現実にできるかどうかはまた別の問題ですが。)
自立すること=(精神的に)大人になることが第一であり、そうしてお互いに「一個の自我を持った自立した人間」として尊重し合うことが、あらゆる人間関係の根底になければならないのだろう、という風に考えています。それが本当の「愛」ということだろうと。
その他、クリスチャン・スイトピーさんの日記には、脱カルト問題について、いつもとても参考になる記事を書かれているので、このブログの読者層の方には参考になると思いますのでオススメしたいです。
現在の私は無神論者で唯物論者ですが、そういう私でも、やはり参考になります。愛とか心の問題というのは、信仰の有無や世界観・人生観とは関係がないものなのではないかと思います。

脳科学的にも人の悪口を言うことは良くない

こちらは、元ザイクス社員:Sさんのtwitterから知りました。
脳科学ですから、唯物論的な話題ですが、「脳は主語が理解できない」とのこと。
「だから、人の悪口を言うと、脳の中では自分が悪口を言われた時と同じ状態になる」 、「つまり、相手の悪口を言うと、自分自身に悪口を言っていると判断し、自分も傷つき気分が悪くなります。」、「人をけなしてばかりいる人は、なぜか自己嫌悪に陥っていくのはそのためです。そして、より、人に対して攻撃的になります。」等々。
所謂「光明思想」で言われているようなことで、「幸福の科学」でも、似たようなことは述べられていました。(その割に、教団内では陰で他人の悪口を平気で言ったりする風潮があったが。)
脳の問題であるならば、言葉として発するかどうかの問題ではなく、思うだけでもいけないでしょう。古来、宗教家たちは「思うことさえ罪になる」ということで心の修行に励んできたわけですが、それは脳科学的にも正しいことだったと言えそうです。
私の個人的な感覚ですが、他人の書いた文章など、仮にそれがアンチカルト側のものであっても、悪口だらけの毒々しいものを読むと、気分が悪くなります。(物事の正邪とは別の次元の問題があるようです。)カルトとは関係ないですが、適菜収氏の文章を読んだときも同様に、その主張は兎も角、人を罵るような汚い言葉だらけで、気分が悪くなったのを思い出しました。そういえば、信者時代、大川隆法の『現代の法難』シリーズの霊言(当時は「仏法護持研修」と言っていた)を聴いたときも、とても気持ち悪くなったのを覚えています。(仏陀が弟子に毒をばらまくなんて前代未聞です。)
話を戻しますと、ちなみに、こういうことが「科学と宗教の融合」ということなのではないかと思います。「幸福の科学」も、そのネーミングの由来を説明して「これは科学と宗教の融合なのだ」などと言っていましたが、その内容はといえば、UFOがどうのとか霊界が多次元でどうのとかいうのばかりで、科学は科学でも、扱っているのは「疑似科学」や「空想科学」といった代物でした。ということは、宗教の方も本物ではなく、「疑似宗教」や「空想宗教」と呼ぶと相応しいのかも知れません。