幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

片田珠美著『他人を攻撃せずにはいられない人』読書感想文

前回の続きです。帯には

職場や家族に潜む「害になる人」の精神構造
人生を台無しにされないために

というコピーが書かれていました。
内容は、「毒になる親」を、もっと普遍的にしたようなものでした。「毒になる親」は、親子間だけの問題でしたが、この本ではそれに加え、夫婦間や友人間、会社内の上司・部下間での問題等を含んでいます。
いくつか抜粋してご紹介します。

「罪悪感を抱かせる達人」

彼らは相手に罪悪感を抱かせる達人である。家庭でも、職場でも、友人関係でも、何かうまくいかないことがあると、ターゲットに、その責任は自分にあり、悪いのは自分だというふうに巧妙に思い込ませる。
どうやって?
彼らは、独特の言い回しが特徴的である。「あなたがもっと気をつけていれば、こんなことにはならなかったのに」「疑ってみるべきだったのに」「そんなことは、みんな知っているのに」というふうに、相手の不注意や無知のせいにするのがうまい。
あるいは、間違ったことをしたのは自分なのに、そう仕向けたのは相手だというふうな言い方をする。たとえば、この父は、先ほど紹介したように、秘書と不倫して、最初の妻と離婚しているのだが、浮気がばれたとき、妻に向かって「おれがこんなことをしたのは、おまえのせいだ」と言い放ったということである。
(第1章「『攻撃欲の強い人』とは」より)

こういう風に言われてみると、「あるあるー」と思います。第1章では他にもこのような例が色々挙げられています。

「疑おうとしない被害者たち」

第2章「どんなふうに壊していくのか」では、そういう人が近くにいるとどうなるかとか、どういうことをしてくるかということについて、幾つかのパターンに分けて、分かりやすく解説されています。
そして、

薄々気づいていても、なかなか反撃できない場合も少なくない。たとえば、「上司には逆らえない」「やはり妻は夫に従うべき」「子供は親の言うことを聞くべき」「他人に不快感を与えるようなことをしてはいけない」というふうな考え方にとらわれていると、反論などとてもできない。こういう考え方は、社会では「善」として受け入れられているので、それが適切かどうか疑ってみることさえしないわけである。
(中略)
わが子を虐待する親は、自分の攻撃的な行為を「しつけ」とか「子供のため」というふうに正当化することが多いが、こうした正当化を許容するような素地が被害者の側にあることも少なくない。
攻撃欲の強い人に、ターゲットにされている人が依存している場合もある。経済的に依存していることが最も多く、「子供もいることだし」「他の仕事を見つけるのは難しいので」といった理由で、反撃などできないと思ってしまう。
もっとも、これは、攻撃欲の強い人が、ときには脅しながら巧妙に恐怖をかき立てるせいでもある。「おれと分かれて、おまえ一人でやっていけるわけがない」「ここを辞めたら、次の仕事を見つけるのは非常に難しい」「ママ友の中で仲間外れにされたら、子供もいじめられるわよね」といった類の脅し文句を聞かされると、麻痺したように身動きがとれなくなるものである。
恐怖を与えるために、脅し文句だけでなく、恩着せがましい態度を示すこともある。「辞めるなんてできないはずだ。これまで、どれだけ世話になったと思っているんだ」「あなたが断わるはずないわよね。ずっと友達で、助け合ってきたんだから」という具合である。「世話」とか「友達」とかいうのが、実はこそこそと痛めつけるだけの関係だったとしても、こんなふうに恩に着せる言い方をする。

このように、被害者がどうして逃れ難いかということまで、微に入り細に入り説明して下さっています。

「自分とは異なる価値観を受け入れられない」

自分自身の考え方や価値観を唯一最良の基準として他人に押しつけたり、自分の知識や教養をひけらかしてそれを身につけるのが当然という態度で接したりするのも、攻撃欲の強い人がしばしば用いる手法である。
(中略)
たとえば、「納豆なんて、人間の食べるものじゃない」という言い方をする人がいる。「私は納豆が嫌いだ」と言う代わりに、一般化するのである。あるいは、「休みの日には、何もせずに過ごすのが一番賢い」と言う人もいる。こんなふうに一般化して言われると、毎週日曜日に早起きしてゴルフに出かけているおっちゃんや、ママさんバレーの練習に休まず参加しているおばちゃんは、「バカ」と見下されているような気になるのではないか。
(中略)
こんなふうに自分の独断と偏見を押しつける傾向は、他の領域にも波及しやすい。子供のしつけや教育、生き方や趣味、果ては社会規範や社会正義に至るまで、「自分の信念が最良で正しい」と主張して、他人の価値観を侵害するようなことになりがちである。
(第4章「どうしてこんなことをするのか」より)

カルト信者はみなこういう傾向がありますね。教祖がその最たるもので、自分の価値観を絶対化して信者に押しつけるということをやっています。信者はそれを受け入れて教祖と一体化し、その価値観に反するものは「悪魔」などと読んで拒絶します。
例えば、ブログ村の「幸福の科学」カテゴリや「統一教会」カテゴリでは、アンチブログが信者の通報によって追い出されるというのが日常です(統一教会と全く同じ反応を示す「幸福の科学」の信者たち - 幸福の観測所やっぱり「統一教会」信者と全く同じ反応をする「幸福の科学」信者たち - 幸福の観測所を参照)。
口では「愛」だの「寛容」だの言いながら、実際には寛容さなど全くないのがカルトのカルトたる所以です。
更に言うと、自分の意志で信者になった人なら兎も角、二世信者は、自分の意志とは関係なく特殊な価値観のみを正しいとして押しつけられるので、かなり心に歪みを作ってしまいます。その信仰が異常であるということに気づくまでに時間がかかるし、気づいてから抜け出すまでにも時間がかかり、傷ついた心が癒されるまでにも時間がかかります。それぞれの段階で、何年もかかるし、場合によっては何十年もかかり、死ぬまで抜け出せない場合も多々あります。

「理解してくれるかもしれないなんて甘い幻想」

攻撃欲の強い人にずっと悩まされ続けていると、くよくよ考えて、欲求不満を溜め込むことになる。そのため、いつかは、自分が受けた苦しみを理解してほしいという願望、あるいは理解してもらえるのではないかという期待を抱きがちである。
(中略)
攻撃欲の強い人があなたの痛みを理解してくれるなんて、ほとんどありえない。そんな幻想は捨てたほうが身のためだ。(中略)
特に、ターゲットを見下している場合ほど、その痛みや苦しみを理解しようとしない。このような傲慢さは、強い自己愛ゆえに、自分には何の問題もないと思い込んでいることに起因する。自分に問題がない以上、何かうまくいかないことがあっても全て他人のせいというわけである。
たとえば、虐待で告発された親が、子供を叩くようなことは一切していないと頑として否認し、少々「行きすぎ」の行為があったにせよ、あくまでしつけのためであり、愛情からやったことだと自己正当化するような場合が典型である。こういう親に限って、わが子を「恩知らず」とののしり、罪悪感を抱かせるようにするものである。
(中略)
要するに、自分は正しいと確信しているので、自分がやったことや言ったことを振り返らない。他人から過ちや間違いを指摘されても、それを認めると自分の弱さを周囲に知られてしまうことになるのではないかという恐怖ゆえに、決して認めようとしない。当然、責任を取ろうともしないし、反省もしない。
それにいちいち憤慨していたら、こちらの身が持たないので、そういう人なのだとあきらめるしかない。
(第6章「処方箋──かわし方、逃げ方、自分の守り方」より)

専門家にこうして言って戴けると、だいぶ気が楽になりますね。
全ての人にとって参考になる本だと思います。できれば、こういう本は,青少年のうちに読んで欲しいです。
一見まともに見えるけどまともじゃない人、深いお付き合いをしてはいけない人、「他人を攻撃せずにはいられない人」というのは、人生において、何度か出会う機会があると思われます。そういう人を見抜く方法や、そういう場合の対処法を知っておくことは、とても有用です。
私の極個人的な感想を付け加えると、こういう被害者は、その心の傷が癒えないまま生活していると、得てして、同じことを自分よりも弱い立場の人間にしたりするものだったりします。自分自身を振り返ると、やはり、そういう面も無きにしもあらずだったと思うので、私としては、そういう所に気をつけなければいけないところかなとも思いました。

片田珠美という人は

どんな人なのかと思ってtwitterを見てみたら、産経新聞で連載を持っているようなのですが、「ゴルフは性交の象徴的代理」とか言っていて、何このトンデモ説は、と思ってしまいました。大丈夫なんでしょうか、この精神科医さん。フロイト系なんでしょうが、ちょっと不安になりました。