幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

唯物論に転向することで寛容になれた

神や霊の実在を信じていた頃は、自分に対しても他人に対しても「かくあるべし」という思いが強かったのだが、唯物論者になってからは、「そういうものなのだ」と、あるがままを受け入れられるようになった。

同性愛について

アナと雪の女王』を観たとき、「これって同性愛者にも受け入れられやすいように作られているな」という感想も持った。
ググってみると、あの歌そのものが「同性愛者のカミングアウトの歌なのだ」という極論まであったりして、それに対する反撥もあったりして、色々な反応があるようである。
反応を観察する限り、少なくとも同性愛者は喜んでいるようだし、『アナと雪の女王』は、「同性愛を肯定している」とは言えないものの、「同性愛を否定していない」とは言えるし、「異性愛を特別扱いしていない」とも言えるし、古典的なラブストーリーとは異質なものであることは確かである。
そのついでに、同性愛について色々調べていたら、動物の世界では割とよく観察されることのようである。人間も動物の一種であり、同性愛者は約一割ぐらいいるとのことである。
神というものを信じていた頃は、「同性愛なんていうのは男女というものを創られた神の意図に反しているので間違いである」と思っていたし、霊や輪廻というものを信じていた頃は、「魂と肉体の性別が違っているとしても、それってよくあることなんだから、今世は今世で今の性別を楽しんで生きればいいじゃん」と思っていた。いずれも、同性愛者の気持ちを全く理解できていなかったと思う。
そういったオカルト的思考を捨てて、唯物論的に考えると、原因が遺伝子の異常なのか何なのかは知らないが、先天的なものであり、その人が悪いわけではなく、何らかの努力で改善できるものでもないのだから仕方ない。自然状態でも一定の割合で生まれるものであるのだから、同性愛が正しいとか間違いとかいうことはない。自然淘汰ということで考えると、同性愛者は一定の割合で存在しても、子孫を残せないのだから、それ以上増殖することもない。
同性愛者が何を言っても異性愛者になることがないように、同性愛を容認する流れが大きくなったとしても、異性愛者が同性愛者になることもない。だから、それで風紀が悪くなるということもない。
本人が何も悪くなくて、社会に対しても悪影響がないとすれば、それを敢て否定する理由はない。私は、神への信仰を捨てることで、同性愛者に対する理解を深め、寛容になることができたのである。

信仰は人を非寛容にさせる

同性愛以外の他のことについてもそうで、「唯物論」という考え方は、人を寛容にさせる効果があるようである。
幸福の科学」でも「寛容」ということは教えていたが(『ユートピア創造論』などを参照)、教祖にしろ信者にしろ、全く寛容ではないのは誰が見ても分かる。気に入らなければ悪魔呼ばわりして追い出すし(きょう子氏や種村氏の例)、ブログ村の「幸福の科学」カテゴリの閉鎖性はご承知の通りだし、私も退会してから、仲の良かった何人かの現役信者の方にメール等を送ってみたことがあるが、誰一人として継続して交流を続けてくれた人はいない。
「寛容さ」という一点だけ取ってみても全くの言行不一致であり、インチキ宗教の誹りは免れ得ない。
ちなみに、一般的に言って、宗教家が説くことというのは、すべてその人自身のコンプレックスの裏返しに過ぎない。例えば、「執着を断て」と教える人は、その人自身が執着深い。だから、他人の執着も目に付くのである。不寛容な人ほど寛容さを説き、愛がない人ほど愛を強調するものである。
民族レベルで見ても同様で、例えば、争いの多い地域ほど、極端に平和を説く教えが流行るものである。元々寛容な民族の宗教は、「寛容さ」ということを意識しないため、殊更に寛容を説くことがない(例:神道など)。