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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

カルト撲滅のために大事なことは謙虚さではないか

カルトの定義は色々あるけれど、自分なりに考えてみた。
「人は誰しも間違う可能性があるものである」という自覚が人として生きる最低限の謙虚さだと思う。自分も間違う可能性があるし、他人も間違う可能性がある。だから、話し合いが重要だし、話し合いの末に多数決で決める民主主義というやり方が今の人類の常識になっている。
しかし、カルト信者はそうではなく、例外的な絶対者を置く。その人だけは絶対に間違わない、と強く信じている。その人を信じて導かれている自分たちもまた正義であり間違うことは無い、と固く信じている。
神は妄想である。「妄想」という言葉がまずければ、人間の作り出したものである。信仰者は「神が人間を作った」と信じているが、実際にはその反対で、人間が神という概念を作り出したのである。
神を信じるというのは不合理なことだと私は思う。ただ、信仰そのものは否定しない。伝統宗教の信仰がカルトとは言われないのは、冒頭に述べたような謙虚さを失っていないからである。寧ろ、信仰を持つことによって、自らを振り返り、謙虚になれる効果もある。例えば、偉大なる神に生かされている自分ということを想像し、傲慢さを捨て、謙虚さを得られるという効果があったりする。
伝統宗教は、過去の反省を踏まえ、相互の信仰を否定したりはしない。「宗教者会議」とかいうのをやったりして、話し合って相互理解に努めようとしていたりする。少し前には、ローマ法王無神論者に対しても寛容な発言をしていたというニュースもあった。
一方、カルトは排他的である。人の話を聞く耳を持たない。表面的には話し合いの場を設けたりもするのだが、自分の主張をして押しつけるばかりで、相手のことを理解しようとかいうことをしない。
私は、「幸福の科学」信者や職員は、基本的にみないい人ばかりだということはよく知っている。中には悪い人もいるけれど、大多数はいい人たちばかりである。ところが、仰木の里の「幸福の科学学園」反対派の住人たちと話していると、頗る評判が悪かったりした。
特に林元副理事長などは、本当に評判が悪かった。私は信者時代、雲水仲間と二人で秋田文殊館を訪れたことがあり、その時に林氏が館長をされていたのをよく覚えている。ニコニコして、優しそうな笑顔で、偉ぶったところは無く、とてもフランクに話しかけてくれたと記憶している。
「信者時代はみないい人ばかりだと思ったのに、どうしてこうなるのか」というのは、大きな疑問であった。その理由は、前述のように、特定の絶対者を置いているからなのだろうと思う。内側から見ると謙虚な人であっても、外側から見ると、他人の言葉に耳を傾けない傲慢な人物になってしまう。(特定の人物のみならず、特定の主義や思想を奉じている場合にもそのようになる。)
まあ、「内側」とか「外側」とか区別がある時点で宗教者として失格だと私などは思うんですけどね。
知を突き詰めると無知の知になるように、宗教も突き詰めると無宗教になるのだろうと思う。単なる無宗教ではなく、一周回った無宗教。「以て無為に至る」ということですわ。そして「無為にして為さざる無し」と。

人を愛するのにオカルト的世界観は必要ないんですよ。神の存在も必要ないし、特定の主義主張も要らない。ましてや宗教組織なんて余計な争いを生むだけ。