幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

虚言癖について

今回は、「幸福の科学」とは特に関係ありませんし、ちょっとしたメモ書き程度のものです。
今年は、小保方晴子をはじめ、やしきたかじんの嫁(&百田尚樹)に至るまで、噓つきが目立った年だった。単に「噓つき」というよりは、病的な噓つき、自分でも噓を吐いているという自覚がないか、自覚があっても全く罪悪感を覚えることのない虚言癖だった。
しかも理研の頭の良い人とか、マスコミ一同とかがこぞってそれらに騙されたというのも面白かった。
病的な虚言癖。その原因は、大部分は育った環境によるもので、特に両親の影響が大だろう。民族や地域性の影響も大きいかも知れない。
実は、私生活でも、このような虚言癖を持つ人と交流することがあった。
自分の利益のためであれば、噓を吐いても罪悪感を感じないようなのである。それどころか、噓を吐かないことが間違いだと考えている。これは私にとっては新しい価値観だった。嘘を吐くよりも自分の利益を優先する考え方を、正々堂々と主張する人。更に、迷うこと無く他人にも嘘を吐くことを強要する。こういう人が親の立場になれば、そりゃあ子供も噓つきになるだろうと思う。
しかし、意外とこのように考えている人は多いのだろうか。「価値観の違い」という一言で片付けてよいのか。
「子供は噓をつくものである」という話も聞いたことがある。
振り返ると、私も子供の頃は噓をついたことがある。キセル乗車をしたこともある。ゲームの大会で、本当は中学一年生だったのに、当時は成長が遅くて背が低かったことを利用して小学生の部で出場し、賞を貰ってしまったこともある。
どちらも、自発的な発想ではなく、友人とかから言われてやったことではあった。でも、噓は噓であり、当時もバレたらどうしようというので内心ヒヤヒヤしていたし、後日、やはりとても後悔した。何度も思い出すし、今でも思い出すからこうして書いているのであり、思い出す度に、二度とこういうことはすまい、と思う。過去に噓をついた経験は、噓をつかないことの抑止力になっている。
まあ、噓をつくのは誰でも噓をつくのだと思う。でも、そこに罪悪感を感じるか、それとも感じないかというところで、大きく分かれるように思う。
罪悪感というのも、習慣により作られるもので、時代や地域が変われば罪悪感も変わる。親の教育によっても変わる。
例えば、イスラム教徒なども一般的な日本人とは大きく価値観が違う。
例えば、同じ日本人でも、ベジタリアンなどは肉食をすることに罪悪感を感じたりするが、普通の人は肉食をすることに何の罪悪感も感じない。
同様に、私は噓をつくことに罪悪感を感じるのであるが、噓をつくことに罪悪感を感じない人はいるものなのだ、と考えると別に何の不思議もない。
逆に私が何の罪悪感も感じないことで、その人は罪悪感を感じたりするのかも知れない。私は自分の感覚が絶対的正義だと思うほど傲慢でもない。ただ、同じ日本人でも、これほど価値観の違う人はいるものなのだ、ということがちょっとショックだった。
この先、人類はどういう風な未来を築いていくのか。噓をつく集団と噓をつかない集団、どちらが生き残っていくのか。噓をつく集団が淘汰されることはないのか。逆に噓をつかない集団が淘汰されてしまうのではないか。個人的には、噓はやはり悪であり駆逐すべきであると考えているし、正直者が馬鹿を見る社会というのは変えていきたいと思うが、それは少数派の儚い夢なのか。性差別をするつもりはないが、女性は比較的噓をつきやすいと聞いたこともある。女性の社会進出と合わせて、これは意外と重要なテーマではないだろうか。
スマートウォッチ等のウェアラブルデバイスの発達で、噓発見器様のものを常時身につけることを義務づけられるようになり、噓の無い社会が到来したりはしないだろうか、と考えてみたりもする。でも、アニメ『サイコパス』にも描かれていたように、自律的に噓をつかなくなることが重要であり、他律的に噓をつかなくなることは根本的な解決にはならないとも思う。
噓つきの心理についてとか、その辺のことをもっと勉強してみようと思います。