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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

高間氏の反論(その2)について

高間氏による反論が再び来ました。

読み進めると、やはり、とても香ばしいですね。
元信者の目線から、少し解説してみたいと思います。

高間氏は何故こんなに憤っているのか?

幸福の科学」でも、寛容の美徳ということは称揚しています*1。機関誌のタイトルにも「Liberty」と名付けるぐらい、「自由」ということも重んじています。信者であれば毎日読誦している根本経典『正心法語』には、「他人に対して理解をし、自分に対しては反省せよ」という修行態度が述べられています。
それなのに、何故こんなに高間氏に対して攻撃するのか?というと、「(他のことはともかく、)三宝誹謗の罪だけは断じて許されない」という思想があります。
同じく根本経典『正心法語』の中の『仏説・降魔経』には、

仏法流布を 妨ぐる 悪魔はこれを 許すまじ
仏・法・僧への 中傷は 極悪非道の 所業なり
もはや人間として生まれるは これが最後と悟るべし

この世のいかなる大罪も 三宝誹謗に 如くはなし
和合僧破壊の罪は 阿鼻叫喚 堕地獄への道 避け難し
・・・

という風に述べられています*2
幸福の科学」信者の頭の中では、仏=大川隆法、法=「幸福の科学」の教え、僧=「幸福の科学」ですから、この教えに従って、「相手にこれ以上罪を犯させないために、敢て厳しい言葉で論難することもある」というのが「幸福の科学」の考え方です。
「自由」とか「寛容」とか「愛」とかを説いているだけなら普通の宗教と共通なのでしょうが、「ただし、自分たちを『誹謗中傷』するものは除く」というのがカルトのカルトたる所以なのだろうと思います*3

余談:寛容さについて

私の考えですが、思想的な寛容さというのは、自分の信ずる価値観以外のものと共存できる姿勢だと思います。信仰者であれば、他の信仰や無神論者・唯物論者を許容できるか。唯物論者であれば、信仰を持つ人やオカルトを信じる人を許容できるか。
例えば、ローマ法王などは、無神論者を許容する発言をしています(信仰を持った親は絶対に反省しない - 幸福の観測所)。
カルトと呼ばれる宗教はその点が非寛容で、唯物論無神論に対する差別や偏見、排撃が強烈です。「幸福の科学」は言うに及ばず、親鸞会にしろ、統一教会にしろ、創価学会その他のカルト宗教でもそうです。無神論唯物論を目の敵にしています。
だから、これらのカルト宗教が政治に進出すると、反共思想を強く打ち出すようになります(統一教会の「国際勝共連合」などは有名)。

外部との接点を持つのは良いことである

さて、高間氏の論は、会内の人が読むのと会外の人が読むのでは、評価が全く正反対になると思われます。
会内では通用するもので、恐らく、内部では「よく書いた!」と評価されて、このように公式サイトに堂々と掲載されたのでしょう。
しかし、外部の人からみればトンデモに満ち溢れており、何の説得にもならないものです。「幸福の科学」側が息巻いて「反論」すればするほど、外部の人からはおかしく感じられ、怪しさが増すばかりです。
そういう本来内部向けの文書を、敢て外部の人の目にも触れるところに出したことには、私は評価したいです。
外部との接点を持ち続けることは、カルトが暴走しないために重要なことです。多くの人から笑われて、自分たちの異常性に気付くこともあるでしょう。今後も高間氏には引き続き「反論」を期待したいところです。
以下、内容について、少しだけ私から若干の反論を書いておきます。

クリスチャン全員が奇跡を信じているのか?

高間氏は、このように書いています。

一例を挙げれば、いったい科学哲学者は、世界宗教として20億人が信仰するキリスト教の聖書が奇跡現象のオンパレードであることをどう説明するのだろうか。聖書には、「イエス・キリストは処刑から3日後に生き返り、500人の前に姿を見せたあと天に昇った」、「キリストは湖の上を歩いた」、「キリストは死後4日の人を生き返らせた」、「生まれつきの盲人を見えるようにした」、「パウロは白光で目が見えなくなったが、アナニヤの奇跡で治った」などといった具合で奇跡現象で満ち溢れている。

しかし、どれ一つ科学哲学で証明も説明もできるものはない。それでも世界の大多数はこの聖書の記述を事実であるとして信じているのである。そしてこの信仰こそが、人類社会を原始状態から脱却させ、複雑高度な政治経済社会へと発展させてきたのである。

この記述のうち、地球上にキリスト教徒が20億人いるというのは一応事実のようですが、その数全員が聖書の「奇跡」を信じているとは考えにくいです(後述のデータも参照)。
また、日本国内に限っていえば、キリスト教徒の割合というのは1%にも満たない程度だそうで*4、その中で奇跡を信じている人となると更に少なくなり、説得力は著しく欠くことになります。
高間氏の言い分は、「日本の神道信者一億人全員が古事記の神話を事実として信じている」と言うのと同じぐらい無理があるのではないかと思います。

余談:無神論者に関するデータを幾つか紹介

色々調べていたら面白かったので、幾つかメモ代わりに記録しておきます。

無神論者の多い国

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無神論者(Atheist)」と「無宗教(Non-religions)」を合計したデータです。
この調査によると、日本は65%程度で世界の中でも五番目の高さですが、スウェーデンノルウェーデンマークといった北欧諸国の割合の高さが目立ちます。
他の先進諸国では、フランスが50%を超えている他、ドイツやイギリスも40〜50%の範囲に入っており、日本と比較しても、取り立てて言うほどそう大きな差は無いことが分かります。
よく、カルト宗教では「日本だけが世界の中で異常なぐらい無宗教者が多いのだ」という風な説得術が使われますが、それは間違いです。

イギリスに於けるクリスチャンの割合推移

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過去三十年分が記されています。無宗教の割合が増え続け、2009年にはついに逆転して、無宗教者が多数派になっていることが分かります。

進化論を信じる割合と一人あたりのGDPを関連付けた表

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アメリカを除くと、大体綺麗なグラフになるようです。
上の高間氏の「信仰こそが、人類社会を原始状態から脱却させ、複雑高度な政治経済社会へと発展させてきた」という記述とは逆のデータが示されています。

IQと無神論者の関連性を表したグラフ

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ご覧の通りです。

「宗教」についての雑感

高間氏は「オカルトと宗教を混同する高橋氏」ということを主張していますが、私は、オカルトと宗教をごっちゃにしているのは「幸福の科学」の方なのではないのか、と思います。
これからの時代、宗教が必要だとすれば、オカルト的な要素を廃した宗教でしょう。科学とも矛盾しない、無神論唯物論も許容できる宗教。
私は既に無神論者ですが、「宗教的人格」ということには未だに憧れがあります。どこまでも自己を滅して、自分に厳しく、他人に優しい。常に裏表なく、噓を吐かない。困っている人を放っておけない。いたずらに他者を傷つけない。人の話を良く聞き、批判にも感謝して耳を傾ける。責任感強く、全ての原因を自己に求める。己は限りなく低くして、他人を決して見下さず、あらゆる存在を我が師とする。……等々、そういった宗教的な人格を陶冶する場としての宗教であれば、私もその教えを学んで修行したい気持ちは今でもあります。
それは、神とか霊とか(ましてや宇宙人とか)いうオカルト的存在を抜きにしても可能なことです。敢て「霊言」などという人の嘲笑を買うようなスタイルを使う必要はないのではないでしょうか。

補足

仏陀=カンターレ」というのは高橋信次の思いつきによる造語です(大摩邇(おおまに) : 高橋信次師の最後の講演 1 八起正法先生編等参照)。高橋信次の頭の中を探ることは、今となってはもうできないので、その発想の元がどこだったかは分かりません。
イエス・キリスト=アモーレ(またはアモール)」というのは当時から神智学等で言われていたそうですから*5、それこそ、「アモーレ、カンターレ、マンジャーレ」から連想しただけの可能性も高いと私は思います。
いずれにせよ、単なるおっさんの思いつきに尊いも何もありません。「鰯の頭も信心から」とはよく言ったものです。
また、「アラー」にしろキリスト教の神にしろ、その意味は普通名詞であり、「カンターレ」という固有名詞とは次元の違う話で、一緒くたにして論ずべき事柄ではありません。
老子道徳経』には、「道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず」という有名な言葉があります。固有名詞を付けられるようなものは、普遍的な存在ではあり得ません。
つまり、固有名詞を付けるから簡単に人間ごときに冒瀆されてしまうのであり、本物の神は名前が無いので冒瀆されることもないということです。
また、今回の件も含め、「外部に敵を作って集団で攻撃させ、内部の団結を図る」という典型的なカルト集団の行動様式が、1991年の「講談社フライデー事件」以来の悪しき伝統として「幸福の科学」には見うけられます。その件については、また日を改めて書いてみたいと思います。

*1:例えば『ユートピア創造論』という書籍の中では、「寛容と許しが大事である」ということが述べられている。

*2:文字通りに受け取れば、大量殺人を犯すよりも、大川隆法の悪口を言った方が罪になるということになります。思想的にはオウムの「ポア思想」のようなもの(「これ以上罪を犯させないために殺す」というような発想)が生まれる可能性のある、恐ろしい教えです。

*3:しかも、この「誹謗中傷」の基準は客観的なものではない。客観的には正当な批判や疑問の呈示であったとしても、自分たちが「誹謗中傷」であると認定すれば「誹謗中傷」になるという、いかにもカルト的なご都合主義なのである。

*4:https://ja.wikipedia.org/wiki/キリスト教

*5:私の記憶違いかも知れません。間違っていたらすみません