幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

お布施返還訴訟の判決確定について。「三輪清浄」はタブー?

カルト新聞の記事。詳細はこちらへどうぞ。
永代供養料と納骨壇使用料は全額返還になったものの、お布施返還は認められなかったとのこと。

まずは私の感想

藤倉さんも書いていますが、お布施返還が認められないという辺りが難しい所ですね。マインド・コントロールされていたかどうかを証明するというのはとても困難なことだと思います。
内側から見た感想としては、教団内では「植福」の功徳を繰り返し説き、1000万円以上の植福をすると「植福菩薩」として表彰されたり、教団内で様々な特別扱いを受けることがあるのは事実です。
しかし、植福する段階では、強制されるようなことは決してなく、飽くまで自由意志でするのであり、しないでおこうと思えばしないでおくこともできた。
「植福」をすることによって、信者自身もその時は満足感を得ていたのであり、そこはやはり返還が認められなくても仕方ないかなと個人的には思いました。
尤も、人と場合によっては半強制的に出してしまったということもあるでしょうし、生活に支障をきたすぐらいの額をお布施したとかになると、それは状況次第かなあとも思います。
思い出すと悔しいですね。私の場合、お金よりも時間を奪われたことがとても悔しいです。他の二世信者も恐らくそうなのではないでしょうか。まあ、人にはできない貴重な経験ができたということはあります。カルトに対する免疫は十分に付いたので、今後の人生でそのようなものに惑わされる可能性が無くなったと考えると、まあ、悪い経験でもなかったのかなとは思います。

「三輪清浄」には言及しない教団

教団からは二つの「反論」記事が発表されています。

共に「お布施は対価ではない」「違憲である」ということを言っており、論旨は一致しています。こういう場合、大川隆法がその元となる発言をして、弟子がそれぞれ補強して文章を書く、という場合が多いです。(同じ人が書いている可能性もある。)
両方の「反論」記事に、以下の大川隆法の言葉が引用されています。

幸福の科学が信者のみなさんからお布施を受けるときも、それは商品の対価、何かの労働の対価ではありません。対価性はまったくないのです。対価性があれば、そこにすでに穢れがあり、それはお布施ではないのです。たとえ、お経を読む、説法をするなどという行為がそこにあったとしても、それは一つの機縁、よすがであって、その対価として、お布施、植福をするわけではありません。お布施は対価性がないものであり、だからこそ値打ちがあり、功徳があるのです」

ザ・リバティの方は、

だが、供養には、死者の冥福を祈る他に、仏・法・僧の三宝を敬うという意味もある。つまり、本来の供養とは、日ごろ神仏から光を受けていることへの感謝の表現形態であり、それが布施や寄進という形として表れる。その後の地上で起きた事情で、「返せ」というのは、やはり「聖」の部分に「穢れ」が入り込む。

とも述べています。どちらも、「三輪清浄」という言葉は使っていません。

「三輪清浄」に言及する信者

こちらのコメント欄で、知恵袋の質問が紹介されていました。

これです。信者はこのように述べています。

教義的には三輪清浄(さんりんしょうじょう)を旨とせよとされていて、布施する側も受ける側も金品も清浄でなくてはならないとされています。
ですので、教義的には布施する側は間違えたお布施をしたことになります。
執着を持ったままお布施をしたからです。

「三輪清浄」に言及しています。ところが、私はサンポールさんところのコメント欄にも書いたのですが、「三輪清浄」というのは出家者に対する戒めなんですよね。正しくは「そのような穢れのある布施は受け取ってはならない」ということであり、回答をした信者は誤解しています。
「三輪清浄」の教えからすると、「間違えたお布施をした」側が悪いのではなく、「間違ったお布施を受け取ってしまった」側が悪い。
穢れがあると、つまり、今回のように「返還しろ!」などと訴訟されて教団の評判を落とすことになるので、そのようなことがないように必要な考えだったのでしょう。

「三輪清浄」はタブーになったのかも?

上記見てきたように、信者は「三輪清浄」に言及しているけど、教団は「三輪清浄」には言及していません。
私は以前に「三輪清浄」の考えを元に教団側の態度を批判したことがあります(お布施返還訴訟について思うこと - 幸福の観測所)。
もしかすると、「三輪清浄」を言い出すと、教団側が不利になるということを大川隆法以下の教団職員は理解したのかも知れません。
それでも、ザ・リバティが言うように、「その後の地上で起きた事情で、『返せ』というのは、やはり『聖』の部分に『穢れ』が入り込む」んだったら、そんなお布施は尊くないから返さなきゃいけないんじゃないでしょうかねえ。

違憲判決」という言い分のおかしさ

さて、次の話です。ザ・リバティはこのようにも述べています。

今回、高裁判決を確定させた最高裁だが、最高裁三権分立の一翼を担う司法権を握る。その国家権力が課税などで宗教の教義や自治に介入することを禁じた政教分離規定(憲法20条3項)に反した「違憲判決」と言えるだろう。

いやいや、いつもは「宗教にも違いがある」って言ってたじゃないですか。宗教であれば何でも許されるなら、「足裏診断」でも「壺売り」でも何でも許されるっていうことになるのはお分かりでしょうか?
それに、憲法が保障しているのは信教の自由なのであって、教団が何をしてもいいという自由ではないということ。
幸福の科学」関係者の方にお聞きしたいのは、例えば、こういうことです。
「宗教」の名を騙った悪徳教団が、おかしな教義を信者に吹き込んでマインド・コントロールし、詐欺的手法で多額のお布施を巻き取っていたとする。しかも、騙し取られたと気付いた信者が返還訴訟を起こしたら、「信教の自由」と「政教分離」を盾に、強硬にお布施を返還しようとせず、判決が確定しても色々と難癖をつけている。
こんな教団は、怪しからん悪徳カルト教団だ、と思いませんか?今回の件で「幸福の科学」という教団は、周りの人からはそのように見られているということです。せめてそこは理解してください。
返せと言われたら大人しく返す、それが尊敬され、安心できる教団です。
「9億円はゴミみたいなもの」なので、裁判所は返さなくてもいいと言ったけど利子をつけて返します、ぐらいのことをやってくれたら、世間の人は見直すし、元信者も喜ぶし、教団の評判も上がるし、悪いことは一つもないと思うんですけどねえ……。
教団側は色々と理窟を捏ねて自己正当化していますが、結局は行動が全てです。「貰ったものは鐚一文返さない」という態度はやっぱりかっこ悪いですよ。一般信者や職員も、少なからず内心はそう思ってるんじゃないでしょうか。

「三輪清浄」を守らないとこうなるという例(8/6追記)

本日発売の週刊新潮に、〈「幸福の科学」から裁判で2300万円を取り返した4人の元「女性信者」〉というタイトルで記事が掲載されました。「三輪清浄」というのは、信者が守るべきものではなく、教団が守るべき戒です。
今回の件に当て嵌めると、

  1. 「(教団から見て)不良信者」がお布施の返還を要求
  2. 教団側は応じない
  3. 裁判沙汰になる
  4. 裁判所からお布施の一部返還を命じられる
  5. 教団側は判決を不服として「裁判所が悪い」と言う
  6. 週刊誌に取り上げられて一般の目に触れることになる

こうして見ると、因果応報がよく分かります。この場合、2番目の対応が間違っていたのですね。
その結果、3番目以降は、全て教団の信用・評判が落ちる事態になりました。
正しい教団ならば、

  1. 「(教団から見て)不良信者」がお布施の返還を要求
  2. 教団側は素直に応じる
  3. 裁判沙汰にはならず、週刊誌にも取り上げられない

これで終わりです。悪名が轟くことはないし、寧ろ美談として語り継がれる可能性もありました。
週刊新潮によれば、お布施返還の要求額は4人合わせて約6800万円だったそうで、これを出し渋ったせいで、教団の信用は一層落ちることになりました。
約6800万円と、それで失う教団の信用を比べてみて、どちらが得か損かというのは、大川隆法こと中川隆くんには難しかったかな?
まあ、今更もう取り返しは付かないですけどね。口だけでは「三輪清浄」とか言ってるけど、実際の行動は全く伴わない、金の亡者のような教団なのだということを示してしまったのだから。しかも教団として反省することもない。「反省なくして発展なし」と言っていましたよね。反省がないから教団が発展しないどころか没落の一途を辿っているのですよ。

また教団側の反論が公式サイトに掲載されました

責任転嫁・オカルト的説明・脅しという三拍子揃ったカルト丸出しの声明ですね。
マインド・コントロールなんてそんな簡単に解けないものですよ。まだまだ教団に残って活動している信者を見ていると、つくづく哀れに思います。二十年来の信者が、週刊新潮を読んだぐらいで「信仰」が失われるわけはないです。積み重なった日々の教団の悪行を目の当たりにしてきた実感から来るものでしょう。
根本原因は、新潮の記事中にもあったように、大川隆法自身が「家庭ユートピア」を説きながら離婚しちゃった、ということでしょう。しかも妻の過去世認定を美の女神アフロディーテから裏切りのユダに変えてしまうということもやったりした。
いくら何でもおかしいと気付きます。教団幹部だって、薄々分かっている筈です。教団没落の全ての原因は大川隆法にあると。
それなのに、教団は「自分たちは悪くない、悪いのはあいつら(週刊新潮)だ!」という態度を貫く。なるほど、だから発展しないんだね。

宗教は最後は冒涜を許さない――。週刊新潮編集部および、酒井逸史編集長は、この警告を真摯に受け止めなくてはならない。

どういう意味なんでしょうか。実力行使に出るんでしょうか。怖いですねえ。
私は宗教は全てを許すものだと思っていましたよ。しかも、そんな簡単に人間が「冒瀆」できるような神は神ではないと私は思いますよ。エル・カンターレという神様は、自称「大宇宙の根本仏」で「神々の主」らしいですが、その割には全知全能とか完全無欠とかそういう「神」のイメージとはかけ離れすぎているんですよねえ……。人間臭すぎるというか、寧ろ並の人間以下の倫理観しか持っていないというね。そんなレベルの低い神様を拝んでいたら、そりゃあ信者のレベルも下がりますわ。