幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

信者同士の言い争いが絶えない理由考察・2015年版

楽山日記経由で知りましたが(信者・アンチのブログを読む 11 ( 宗教 ) - 楽山日記 - Yahoo!ブログ)、またしてもブログ村で信者同士の言い争いが巻き起こっているようです。楽山日記さんは、ソース付きで纏めて下さっているので、非常に参考になります。
途中、レオ氏やガンブロ氏が何故か私のことにも何度か言及されているようで、よく分からない展開になっていますが、深入りはしません。毎度のことで、相変わらずだなあと思って高みの見物をしています。
ところで、私は以前にもこんな記事を書いていました。

前者は「教祖からして他人を裁いてばかりいるので、それが信者にも伝染しているのだ」ということ、後者は「教義の中に差別心を肯定するものがあるからだ」という指摘をしていました。
今回は、また別の二つの観点から考察してみたいと思います。

人間中心であるか、教義中心であるか

一つ目は、これがその組織がカルトであるか否かを分ける大きなポイントなのではないか、と最近思っている点です。宗教に限らず、左翼セクトとかでもそうです。信ずる思想のために個人を抑圧するようになってしまうのが一番の問題なのかなあと。
初めは人間を幸せにするための手段として考えられた思想であった筈なのに、その思想の下に人が集まってくると、逆に人間が思想を実現するための手段になってしまうという、目的と手段の顚倒が起きてしまう*1
仏国土ユートピアの実現」「全人類救済」などと言いながら、信者同士で口汚く非難し合って地獄の様相を呈してしまうのは、そんな所に原因があるのかなと思う次第です。
伝統的な教えに基づく宗教であっても、その運用次第で簡単にカルト化するというのは、創価学会親鸞会やカルト化教会の例を見ても分かります。
私は、人間が思想(教え)に奉仕するようになったらお終いだと思います。どんな立派と思える思想であっても、所詮は人間の頭で考えられたものであるので自ずから限界もあり、完璧ではあり得ないものです。どのような思想を信じるのも良いですが、あくまで人間中心の立場を崩さず、思想は人間が幸福になるための手段に過ぎないのだということを弁えておくべきだと思います。

判断基準が自分の中にあるか、それとも外部に依存しているか

これが二つ目ですが、一つ目の言い換えとも言えるかも知れません。
カルト宗教信者のように、善悪の判断基準を外部*2に依存してしまっている場合、自分と異なる考えに出会うと、思考停止してしまい、一切受け付けなくなります。
例えば、カルト信者は、周りから幾ら「おかしい」と指摘されても、自分の信仰は間違っていないと固く信じ、人の話を聞く耳を持ちません。その頑迷な様子を想定しています。
反対に、自分の内側に自分で決めた判断基準を持っている場合、対応がとても柔軟になります。自分と異なる考えに出会ったとき、相手の主張に耳を傾け、理解しようと試み、自分の主張と突き合わせて考え、自分の方に間違っている点があれば柔軟に修正していくことができます。
先頃、高橋昌一郎先生も「対話重視」ということを仰っていまして、なるほどなあと思いました。態度がカルト信者とは正反対であるので、そりゃあ相容れないでしょうね。
話し合うことができるのは、お互いの意志を尊重した人間対人間の関係であること。『憲法十七條』の「我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ」という言葉も思い出されますね。
例えばこれがカルト教祖とその信者のように、「神対人間」になってしまうと、元々単なる「凡夫」である教祖の言葉が絶対的な「聖」の地位に置かれることとなり、本来真理ではないものを「真理」と誤認してしまうことで、種々の問題が生じることになります。
或いはまた、カルト信者とその批判者のように、「天使対悪魔」の構図になってしまうと、元々「共に凡夫」である人間同士であるにも関わらず、カルト信者は批判者を「愚」と断定し、その指摘に耳を傾けることが無くなります。

まとめ

つまり、言いたいことは、

  • 価値判断を他者や外部に依存してはならない

ということですね。
精神的に自立することで、他者を尊重できるようになるし、自分と異なる意見にも寛容になれて、幅広い見解を許容できるようになると私は思います。
最近話題の武藤議員とかも、自説の正しさのみを主張して、相手の話を聞かない人の典型ですね。武藤氏曰く、SEALDsの人たちは「自分中心、極端な利己的考え」だそうですが、自己中心的な人がこの炎天下で毎週のようにデモをすると思っているんでしょうか。若いし、他に楽しいことはいっぱいあるだろうに、その他の楽しみを犠牲にして活動している姿は、その主張の是非はともかく、尊敬に値すると私は思います。*3
自分と意見を異にする人に対しても敬意を払うというのは、大人として当然の態度だと私は考えます。公人であれば尚更備えておくべきマナーであるのに、指摘されてもその態度を改めないというのはもう異常すぎます。自民党や保守派側からそういう指摘がなされないのもどうか。
いや、少し脱線しました。
とにかく、申し訳ないけれど、彼らから反面教師として学ぶことは多いです。私もつい数年前までは元カルト信者であり、その時の傾向が抜けきったわけではありません。なので、こうして観察することで、自分自身の考えや態度を少しずつ修正していけるのは有難いことです。

追記:「自由」について

こちらの蛭子能収さんの考え方が素晴らしかったです。

「僕自身が自由であるためには、他人の自由も尊重しないといけないという信念であり、それが鉄則なんです。人それぞれ好きなものは違うし、ライフスタイルだって違う。そこをまず尊重しない限り、いつか自分の自由も侵されてしまうような気がしてなりません」

これです。他人の自由を尊重する姿勢が自分の自由を守ることになります。私はこういう考え方にとても共感します。

*1:尤も、これは信者と教えの関係の場合のみであり、教祖と教えの関係となると、教祖の都合次第で教えはコロコロ変わることになります

*2:ここではカルト教祖やその説く教えのこと。信者はそれを「完璧な真理である」と思い込んでいる

*3:と同時に、「可哀想に、どうしてそんなことをするんだろう、もっと他に楽しいことをして青春を満喫したらいいのに…」とも思いますが。私は「鼓腹撃壌」を理想と考えるので、若者の政治活動には違和感があります。